現代論語 交際


 

 

 

第三章 交際に関わる章

 人がこの世で生きて行くには、無人島でない限りは、人と人との関わり合いは必ずある。

 人生に役立つ友もいれば役立たない友や損になる友もいる。仲の良い友もいれば仲の悪い友もいる。

 これらの人間関係を、どの様に渉ってゆくのか?

 

 

学而第一の第12章

 礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、親子から国家までの総てに、信頼と不信の端緒に関わる厳しい性質のものである。

 しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、伸び伸びとした自然的な調和を実現するところにある。

 古聖の道も、そうした調和を実現したればこそ美しかったので、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りでいこうとすると、上手くいかないことがある。

 調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼をもってそれに節度を加えないと、生活に締まりがなくなる。

【屁理屈】

 「禮」と謂うと、大袈裟に聞こえるが、一般的に謂えば「挨拶」の事で、親子の挨拶、夫婦の挨拶、近隣の挨拶、から始まって・・・・・・儀礼へと続き、国際間にも到る。

 挨拶は人と人とが関わり合う上で、極めて重要な行為で、挨拶によって、一層の信頼を深め、或いは不信を懐く事の端緒となる。

 日々の紙面でも、一寸した挨拶が切っ掛けで、互に好印象を懐いたり、挨拶の行き違いで、刃物沙汰に成ることは、決して珍しい出来事ではない。

 日々の挨拶は習慣的動作の一つとして、咄嗟の判断に依ることが多く、俳優の演技でもない限り、挨拶一つで心の中が見透かされ、心の中をさらけ出す結果となる。

 ギクシャクした親子関係や夫婦関係など、その根底には、日々の生活で相手に敬意を払い、相手を配慮した対応、即ち誠意に基づいた「禮」を為していない事が原因と成る場合が多い。

☆此からでも遅くは有りません!

 先ず誠意を持って妻に禮(挨拶)を為し、子供達に對しても、誠意を持って禮を為すことを、日々の習慣とすることをお勧めします。

 貴方は相手に對して、「私は禮を尽くしているのに、その態度はなんだ!」などと言うような事を心にも口にも為してはなりません。何も求めてはなりません。

 相手に求めた途端に、貴方の行為は誠意では無くなるのです。孔子は相手に對して何も求めていない。「禮」(挨拶)を為すとは、実はとても難しい行為なのです。

 子供が親に挨拶をしないのは、親が子供に挨拶を教えていなかったからです。子にしてみれば、親の示してくれた模範を忠実に履行したのに、叱られては間尺に合わないね!

 

  有子曰:

 

「禮之用,和為貴。

 

先王之道斯為美,小大由之。

 

有所不行,知和而和,

 

不以禮節之,亦不可行也。」

 

學而: 有子?:「禮法的運用,以和為貴。這是最美好的傳統,適用於一切事情。但僅知道『和為貴』是不行的,違反禮法而講『和』是?對不行的。」

 

 

 

為政第二の第10章

 文面通りに読むと;人間の値打ちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどのへんにその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察してみると、よくわかるものだ。

 人間は自分を誤魔化そうとしても誤魔化せない。決して誤魔化せるものではない。

【屁理屈】

 さて現実に目を移すと、人はその場その場で如何様にも変貌を遂げる能力を持っている。だが其れは何れ見透かされ、見え見えであると謂っている。

 人は相手によって態度を変えるので、マイクを向けて聞いたら、本当のことは話さないと覚悟した方がよい。

 聞く方も此は本当の意思ではない!と覚悟して聞いた方がよい。

 

子曰

 

視其所以。

 

觀其所由。

 

察其所安。

 

人焉?哉。

 

人焉?哉。

 

為政: 孔子?:「分析其動機,觀察其行動,瞭解其態度;人藏?去?人藏?去?」

 

 

 

為政第二の第14章

 君子の交りは普遍的であって派閥を作らない。小人の交りは派閥を作って普遍的でない

 人に上に立つ人は、それ相当の能力があって、判断が付かず優柔不断ではない。因って数を頼りに意思を通す派閥は創らない。

【屁理屈】

 ただ此は昔のことで、今では如何に最上位の人と雖も、足を引っ張る方も数を頼りに攻めてくるので、此方も矢張り数を用意しなければならない。

 昔は知識の差が歴然であったから、君主として意思を通せたが、今の世の中、知識の差が殆ど無くなってきたので、数に頼らざるを得ない一面もある。

 

子曰。

 

君子周而不比。

 

小人比而不周。

 

為政: 孔子?:「君子團結群衆而不拉?結派,小人拉?結派而不團結群衆。」

 

 

 

八?第三の第3章

 もし人間らしい愛情を持たないとすれば、禮も楽も見せ掛けのものに成って仕舞うでしよう。

【屁理屈】

 論語の解説書を読むと、“仁”に付いて難しそうに書かれているが、簡単に謂えば、仁とは「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」の5つの要件を纏めて謂った言葉である。

 人は沢山居るので、全部の要件が揃っている人もいれば、3要件だけの人もいれば、全く要件の揃わない人もいる。

 亦「禮」とは“敬意”と“きまり”と“厳かさ”を内包した行為で、「楽」とは“人間の親和”をもたらす行為である。

 

子曰:

 

「人而不仁,如禮何?

 

人而不仁,如樂何?」

 

八?: 孔子?:「對於不仁的人,禮法有何用?音樂有何用?」

 

 

 

八?第三の第4章

 林放が禮の根本を問うた

 此は大きな問題だ!

 禮はその規模よりも慎ましやかさが大切だ!

 葬儀にしても形式よりも哀悼の意を表すことが大切だ!

 此が禮の本質である

【屁理屈】

 「禮」には、祝賀の禮と哀悼の禮があり、式典としての禮は、殆どの場合宗教と密接な関係を持ち、日本では祝賀の禮は神道が担当し、哀悼の禮は仏教が担当する。

 1955年以前は余程の金持ちでない限り、結婚式も葬祭も自宅で行っていて、祝賀も哀悼も満面の笑みと涸れんばかりの泪と、その有様は誠心誠意で、論語で述べられている通りであった。

 然し1955年以降は結婚式は豪華な結婚式場で、葬儀は荘厳な葬儀場で、式典業者のスケジュールに沿って行われ、個人の意思は影を潜めた。

 式典は孔子先生の示唆には程遠く、当事者の意思ではなく、葬儀屋と金銭との相談がその根幹となった。

 

 林放問禮之本。

 

子曰:

 

「大哉問!

 

禮,與其奢也,寧儉;喪,

 

與其易也,寧戚。」

 

八?: 林放問禮的本質。孔子?:「這個問題十分重大!禮儀,與其隆重,不如節儉;喪事,與其奢侈,不如悲戚。」

 

 

 

八?第三の第7章

 リーダーは人と争わない、争うとすれば弓道で有ろう。弓を射るときはお互いに挨拶し譲り合う。

 そして負けたときは、勝者から罰杯を受ける。

 此がリーダーの争いである。

【屁理屈】

 争いは勝っても負けても良い結果はもたらさないので、回避の方策を練るに越したことはない。

 やむを得ず争いとなった場合でも、双方に妥協できる道を用意しておくべきである。

 勝っても懲罰が過酷に過ぎると、次の争いの芽が生まれ、際限のない争いとなる。

 勝てば官軍負ければ賊軍となり、力は正義として決着するが、実のところ、勝者にも敗者にも正義はあり、共に不正義もある。

 この事を配慮して事を治めないと、見識の狭さが禍して留まる事のない争いの種を蒔くこととなる。

 スポーツを盛んにすることは、争いの芽を摘む行為としての一面があり、本章の弓道は其れである。

 自由主義は競争の自由もその範疇にあり、常に競争の中に身を置き、競争には勝敗が有り、常に勝敗の中に身を置く。

 それに対して“仁徳”は自己抑制を根幹として、自分から競争を抑制するので、其処に勝敗は生じない。

 

  子曰:「君子無所爭,必也射乎!

 

揖讓而升,下而飲,其爭也君子。」

 

八?: 孔子?:「君子沒有可爭的事情。要爭的話,就象射箭比賽:賽前互相行禮,賽後互相緻敬。這樣的競爭,具有君子風度。」

 

 

 

八?第三の第13章

 衛の國の側近に媚びるより実権を握っている私に媚びたらどうか、と、王孫賈が誘いを掛けた。

 こそこそと媚び諂ったら人格を失い天罰を受ける」と、孔子は誘いを断った。

【屁理屈】

 悪いとは判っているが、どちらを撰ぶか判断に惑う場合もあろう。ただ道徳的には筋を通す事が正道で、孔子先生が示唆するように、長い目で見れば筋を通した方が宜しいのである。

 時々発覚して紙面を賑わすが、殆どは発覚しないのだろうと推察する。何故なら全部発覚するのなら、損得勘定が「損」で、誰も悪さをしないはずだから!

 

  王孫賈問曰:

 

「與其媚於奧,寧媚於竈,

 

何謂也?」

 

子曰:

 

「不然,獲罪於天,無所?也。」

 

八?: 王孫賈問:「『與其祈?較尊貴的奧神的保佑,不如祈?有實權的竈神的賜福』,是什?意思?」孔子?:「不對。犯了滔天大罪,怎?祈?也沒用。」

 

 

 

里仁第四の第7章

 人柄しだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ。

【屁理屈】

 “ひと”は大昔の過去から、遺伝子情報が引き継がれ、現在の“ひと”が居る。

 近くなら爺さん婆さんの生き様を引き継いだ孫の存在があり、もっと近くなら、子供の頃から今までの経過が蓄積されたご本人が居る。

 今の過失は、過去に蓄積された経験の一端が現れたに過ぎない。因って今の過失を見れば過去にどんなことが有ったか?凡その想像は付く。

 

子曰。

 

人之過也。

 

各於其黨。

 

觀過斯知仁矣。

 

里仁: 孔子?:「人的過錯,各不相同。觀察過錯,就能瞭解人的精神境界。」

 

 

 

里仁第四の第10章

 君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行なったり禁止したりすることは決してない。

 虚心に道理のあるところに従うだけである

【屁理屈】

 尤もな事だが、孔子の理想を述べたに過ぎない。指導的立場の“人”は“無誤謬”と言う前提に立てば成り立つが、現実の指導的立場の“人”は無誤謬ではない。

 如何に間違いのない判断と雖も、一億人に同意される判断は有り得ない。強いて誤謬と謂うならば、全く判断を下さぬ事以外に無誤謬はない。間違いを犯さなかった政治家は、何も為さなかった政治家とも謂える。

 因ってこの文は、指導的立場の“人”は「この様で有るべきだ!」と、希望的な思いを陳べたのである。

 読者諸君!「私に関係有りません」などと言わないで下さい。此の章は貴方に語り掛けた章ですから。

 

子曰。

 

君子之於天下也。

 

無適也。無莫也。

 

義之與比。

 

里仁: 孔子?:「君子對於天下事,不刻意強求,不無故反對,一切按道義行事。」

 

 

 

涸沢之蛇

 こたくのへび

 うまく相手を利用して、ともに利益を得ること

【屁理屈】

 落語や講談にも此に似た話は沢山ある。何処に運があるかは分からないが、他人様に気遣いを怠らなければ、小さな運なら思う以上に繞ってくる。

 普段自分が為したことは、妻か子か孫か、何処かに繞ってくるが、自分のことだけしか為さなければ、何も繞ってこない。

 今の自分に繞ってきている好運は、何時の時かは分からぬが、妻か子供か孫かお袋か親父か祖父か祖母が為した親切心に依る便宜供与が、時間を隔てた今になって、お礼という形で繞ってきているのだろう。

 他人様をよくよく観察していると、この巡り合わせは案外簡単に見て取れる。“ひと”は、何んらかの便宜を受けると、其れを契機として、次の何方かに其の便宜を贈る事となる。多くは其の関係者に贈るので、即ち此が“好運”である。

 一寸した親切でも、受けた人は気分が良く、他の人に親切を為す事が多。

 

  鴟夷子皮事田成子。

 

田成子去齊、走而之燕。

 

鴟夷子皮負傳而從、至望邑。

 

  子皮曰、子獨不聞涸澤之蛇乎。

 

涸澤蛇將徙。

 

有小蛇、謂大蛇曰、

 

子行而我隨之、人以爲、蛇之行者耳。

 

必有殺子。

 

不如相銜負我以行。

 

人必以我為神君也。

 

乃相銜負以越公道。

 

人皆避之曰、神君也。

 

  今子美而我惡。

 

以子爲我上客、千乘之君也。

 

  以子爲我使者、萬乘之卿也。

 

子不如爲我舍人。

 

田成子因負傳而隨之、至逆旅。

 

逆旅之君、待之甚敬、

 

因獻酒肉。

?伝 … 通行手形。

?望邑 … 望という町。邑は地方の町や村のこと。

?涸沢 … 水の涸れた沢。

?舎人 … 家来。

?逆旅 … 宿屋。

?逆旅之君 … 旅館の主人。

〔出典〕 『韓非子』説林上

 

 

 

里仁第四の第12章

 金儲けばかりに心していると、人から恨まれることが多い。

【屁理屈】

 “拝金教”信者に成って仕舞うと、お金さえあれば幸せに成ると勘違いする。お金のために結婚し、お金のために離縁し、お金のために人殺しを為し、お金のために病気になり、お金のために遂に死ぬ。

 死んだ後には何も残らない。怨みと恨まれ丈だ!

 此が人生か!?もっと孔子先生の示唆を実行して欲しい!

 

  子曰:

 

「放於利而行,多怨。」

 

里仁: 孔子?:「一切按利益行事的人,人人厭惡。」

 

 

 

里仁第四の第16章

 “大人”と謂われる人は、道義を重んじ、“小さい”と謂われる人は、損得勘定に心が動く

【屁理屈】

 損得勘定に敏感な人でも、懐に余裕が出来ると、金銭に無頓着になる人が居て、見識を弁えた人でも、喰わずには居られないので、損得勘定に無頓着ではいられない。

 武士は喰わねど高楊枝とは謂うけれど、そんな人は希で、殆どの人は喰うために奔走する。矢張り生物である以上個体の保持が第一で、理性はその次になる。

 

  子曰:「君子?於義,小人?

 

於利。」

 

里仁: 孔子?:「君子通曉道義,小人通曉私利。」

 

 

 

里仁第四の第17章

 優れた人を見たら自分も其れに近付こうとし、くだらない人を見たら、自己反省の材料にする

【屁理屈】

 優れた人を見たら、自分も其れに近付こうとする。恐らく誰でもそう思うだろう。くだらない人を見たら、こんな人には成りたくない!と、誰でもそう思うだろう。

 だが物事は計算道理には行かない。一寸はそう思うが、自分で言い訳を創ってしまい、自分で言い訳に納得する。だから恐らく死ぬまで変わらない。

 

  子曰:

 

「見賢思齊焉,

 

見不賢而?自省也。」

 

  里仁: 孔子?:「見到賢人,要向他看齊;見到不賢,要反省自己。」

 

 

 

里仁第四の第26章

 上司に無闇に進言すると、五月蝿いと馬鹿にされる。

 友達に對してもくどい忠言は、煙たがられる。

 詰まり進言も忠告も度が過ぎると逆効果になる。

【屁理屈】

 “ひと”は“他人”の話を素直に聞かないものだ!何故かと言えば、進言されたり忠告された御本人は、此が一番良策と思っているのに、違うと謂われると、余程人間が出来た人でない限り、素直に聞き入れられない。

 自分に置き換えて見ると、余り忠告されると素直になれない!だからこそ凡人だ!

 此が素直に聞き入れれる“ひと”は、既に賢人だ!

 

  子游曰:

 

「事君數,斯辱矣,

 

朋友數,斯疏矣。」

 

里仁: 子游?:「在領導面前愛?叨,就會自取其辱;在朋友面前愛?叨,就會遭到疏遠。」

 

 

 

公冶長第五の第3章

 ある人が孔子の弟子の“雍”に付いて評した。

 あの男は仁徳のある人物かも知れんが、惜しいことに口べたです。

 其れを聴いた孔子は、“口下手だから好いのだ”口先ばかり達者では、却って人に恨まれることだって有るからね!

 人間は「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」は必要だが、弁舌が立つ必要は無いと謂うことだ!

【屁理屈】

 世渡り上手は口上手とは限らない。巧言令色は仁が少ないと謂謂われるが、口が上手だと程ほどに人を惹き付けられるが、その効力は一度限りである。

 矢張り長く付き合うには、口下手でも誠実な人を撰んでしまう。

 若い男性諸君、口下手でも誠実な女性を妻に撰べば幸せになれるが、色気と口上手を撰ぶと、後でメッキが剥げて離婚になる。

 結婚について、賢い女性は賢い相手を撰ぶ。普通の女性は普通の相手を撰ぶ。愚かな女性は外見で撰ぶ。

 賢い男性は賢い女性を撰ぶ、普通の男性は普通の女性を撰ぶ。愚かな男性は外見で撰ぶ。

 男性でも女性でも、賢ければ賢い相手を撰ぶ。普通なら普通の相手を撰ぶ。愚かなら愚かな相手を撰ぶ。

 此は釣り合いで、お互いに釣り合っていないと、其れは其れで難儀だ!

 

  或曰:

 

「雍也,仁而不佞。」

 

子曰:「焉用佞?

 

禦人以口給,?憎於人。

 

不知其仁,焉用佞?」

 

公冶長: 有人?:「仲弓有仁コ但沒口才。」孔子?:「要口才幹什??善於辯駁的人讓人討厭。我不知道他是否稱得上有仁コ,要口才幹什??」

 

 

 

公冶長第五の第17章

 齊の名宰相 晏平仲を評して孔子はこう謂った。

 彼は人との交際が上手かった。

 どんなに長く付き合っても、どんなに親しく付き合っても、相手に対する敬意を忘れなかった。

【屁理屈】

 人との交わりは、最初の中は互に注意し、心遣いもするが、長くなると、屡々互にぞんざいになる。

 長ければ長いだけ、良きにつけ悪しきにつけ、互に知り合うのだから、却って互に心遣いを怠らないようにしなければならない。

 最も身近な存在として、自分の親が居る。次いで配偶者が居る。次いで我が子が居る。

 配慮を怠らなければ、親子喧嘩も無ければ、夫婦の仲違いもない。子供がグレたりしない。

 親しき仲にも礼儀あり!

 

  子曰:

 

「晏平仲善與人交,

 

久而敬之。」

 

公冶長: 孔子?:「晏平仲善於交朋友,交往越久,越受人尊敬。」

 

 

 

公冶長第五の第18章

 臧文仲は、諸侯でもないのに、国の吉凶を占う蔡をもっている。

 しかもそれを置く節には山の形をきざみ、?には水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。

 世間では彼を知者だといっているが、こんな身のほど知らずが、なんで知者といえよう

【屁理屈】

 物事には節度という物差しがある。其れを越えて“のうのう”と出しゃばっている人が居る。

 だが世間には其れを見破れる人物が居ない。 “臧文仲”さんも“民衆”も、どっちもどっちだ!今の世の中に当て嵌めてみると、珍しいことではない。烏合の衆が沢山集まると、烏合の衆の言い分が正当化される懸念がある。

 

 子曰。

 

臧文仲。

 

居蔡山節藻?。

 

何如其知也。

 

公冶長: 孔子?:「臧文仲建造自己的宗廟,房頂呈拱形,柱子上畫著水草圖案,廟?藏著大龜,象天子的宗廟一樣,這怎?算明智?」

 

 

 

公冶長第五の第23章

 殷の時代の伯夷と叔齊の兄弟は、他人の旧悪を何時までも根に持つことはなかった。

 だから人の恨みを買うこともなく、清潔な人物として尊敬された。

【屁理屈】

 前に酷い目にあったことを何時までも覚えていて、グジグジ謂うのは、他から見ていても宜しくない。

 過ぎ去ったことは戻らないのだから、其れは忘れて、前を良く見た方が賢明だ!

 立場によって基準尺度が違うのだから、此方になんの落ち度も無いと思えても、其れはこちら側の言い分で、先方には先方の言い分がある。

 災難に遭うのには、此方にも其れなりの原因があり、二度の災難に遭わないように原因を突き止め、咎める前に、近付かない事と、早く逃げること!用心に越したことはない。

 この問題は民族性が有るようで、日本人はとうに忘れているのに、恨まれたりもする。

 原爆投下や東京大空襲も有って、命日に成ると聲高に叫ぶが、常日頃の怨みには成っていない。其れは神道思想に通じる。

 数千年前の行き違いを、継承に継承を重ねて、未だに憎み合っている民族もいる。

 

  子曰:

 

「伯夷、叔齊不念舊惡,

 

怨是用希。」

 

公冶長: 孔子?:「伯夷、叔齊不記仇,怨恨他們的人也就很少。」

 

 

 

以心伝心

 いしんでんしん

 ことばに出さなくても、心が通じ合うこと。

【屁理屈】

 言葉に出さなくても心が通じ合うと謂うが、言葉に出した方が正確な意思を伝えることが出来る。

 自分自身のことを自分でも明確には分からないのだから、親子にしても夫婦にしても、ハッキリと言わなかったことがゴタゴタの要因に成ることが多い。

 現実の社会では謂わなくとも分かる!等と、恰好の良い物ではない。解らぬ者同士の・・・・・だろう。

 人のゴタゴタの大半は、心が通じない事が起因で有る。心が通じないから心の悩みとなる。心の悩みを解くのが宗教なら、以心伝心で、心が伝わるのなら、宗教も要らないと謂える。

 

 法則以心傳心、

 

皆令自悟自解。

〔出典〕 『六祖壇経』行由

 

 

 

雍也第六の第23章

 知識人は水の動きを楽しみ、仁徳の人は静かな山を愉しむ。

 知識人は活動的で、仁徳の人は静かである。

 知者は活動を楽しみ、仁者は生きることに楽しみを見出す。

【屁理屈】

 此は知識人と仁徳の人を比べた基本的な考えで、知識人は頭の回転が良く環境や境遇に応じて上手く身を処し、仁徳の人は環境や境遇に囚われずに長生きする。

 世間を見ていても知識を駆使する人は世渡りが上手だが、ダメになるまで世間を走り回る。

 それに対して余り世間に係わりを持たない生き方をしている人は、年老いても世間に振り回されることもなく生きている。

 

  子曰:

 

「知者樂水,仁者樂山;

 

知者動,仁者靜;

 

知者樂,仁者壽。」

 

雍也: 孔子?:「明智的人喜歡水,仁慈的人喜歡山;明智的人好動,仁慈的人好靜;明智的人快樂,仁慈的人長壽。」

 

 

 

述而第七の第11章

 世の中に認められれば全力で務めるが、認められないときは、じっと我慢の生活が出来るのは、私とお前ぐらいだろう。

 子路が口を出した

 先生が一国の総司令官になられたら、誰と行動を共にしますか?

 私が仲間にしたいのは、素手で虎に立ち向かったり、黄河のような大河を歩いて渡ろうとする命知らずはご免だね!

 私が頼りにするのは、この様な人だね!

 事に当たっては慎重で周到な策略を繞らし、その作戦を成功できる人物。

【屁理屈】

 自分が冷静なら、無謀な人と乱暴な人は仲間にしない。

 自分が冷静でないなら、無謀な人と乱暴な人を仲間にする。

 

  子謂顏淵曰:

 

「用之則行,舍之則藏,

 

唯我與爾有是夫!」

 

子路曰:

 

「子行三軍,則誰與?」

 

子曰:

 

「暴虎馮河,死而無悔者,吾不與也。

 

必也臨事而懼,

 

好謀而成者也。」

 

述而: 孔子對顏淵?:「受重用時,就展露才華;不受重用時,就韜光養晦。?有我和?能做到!」子路?:「?帶兵作戰時,讓誰輔助?」孔子?:「徒手斗猛虎、赤?過深河,至死不悔的人,我不需要。我需要的是那種小心行事、以智謀取勝的人。」

 

 

 

先即制人

 さきんずればひとをせいす

 他人よりも先に事を行えば、有利な立場に立つことができる。

【屁理屈】

 生物は昔から競争社会で、競争に勝ち抜いたからこそ現在の人間が居る。人間同士でも競争が絶えず、集団(国家)でも競争が絶えない。

 小さなことから大きな事まで早い者勝ち!である。開発するのも早い者勝ち、質の良い物を作るのも早い者勝ち・・・・・・・・・・早い者勝ちでない物は有るのかな?よくよく考えたら、矢っ張り早い者勝ちだつた!

 

  秦二世元年七月、

 

陳渉等起大澤中。

 

  其九月、會稽守通謂梁曰、

 

江西皆反。

 

此亦天亡秦之時也。

 

  吾聞、先即制人、

 

後則爲人所制。

 

吾欲發兵使公及桓楚將。

 

?陳渉 … 陳勝。農民反乱の指導者。

?大沢 … 沛県の大沢郷。現在の安徽省宿州市。

?会稽 … 会稽郡。

?守 … 郡の長官。

?通 … 殷通。通は名。

?梁 … 項梁。項羽の叔父。

?反 … 反旗を翻す。

?公及桓楚 … あなたと桓楚。公は項梁を指す。

?将 … 将軍。

〔出典〕 『史記』項羽本紀

 

 

 

述而第七の第22章

 自分を含めて三人で行動する場合、他の二人の中どちらかは、自分が見習うべきものが必ずあるだろう。

 その良いものを撰んで其れを見習い

良くない方からは、反省の糧として我が身を正せばよい。

【屁理屈】

 学習するのに敢えて指導者を求めなくとも、身の回りに師となる人物は沢山居ると謂えば、尤もに聞こえるが、現実の社会では其の行動範囲は差ほど広くはない。

 孔子先生が接する周囲の人は、孔子先生と同等レベルの人が多く、○○○先生が接する周囲の人は、○○○先生と同等レベルの人が多い。

 依って其の囲みから出ない限り「その良いものを撰んで其れを見習い」は、見いだせない。

 「良くない方からは、反省の糧として我が身を正せばよい」は、対象とする人物は居るだろう。

 其れより前に、反省材料にされないように、学習に努めよう。

 今の世の中を見ていると、世間は広いと謂うが、自分の立ち位置が同じでは自ずと周囲の人も同じである。

 多くの人と交わりたかったら、自分の立ち位置を変えなければならない。現実には職業を換える事が手っ取り早く、職業を換えると、家属と親類縁者以外は殆どが入れ替わる。

 そうすると物事の考え方も沢山入れ替わる。

 

  子曰:

 

「三人行,必有我師焉。

 

擇其善者而從之,

 

其不善者而改之。」

 

述而: 孔子?:「三人走路,必有人可作為我的老師。選擇他的優點向他學習,借鑒他的缺點進行自我改正。」

 

 

 

述而第七の第26章

 私は聖人には会えないが、優れた道徳者には会える。

今は善人を望んでも無理だが、せめて行動に基準のある人物に会えたら満足だ。

 行動に基準のある人物は世の中に居そうで居ない。

 世間に多いのは、中味は空っぽなのに有るように見せ掛けている見栄っ張りばかりだ。

 とても行動に基準があるとは思えない。

【屁理屈】

 孔子先生、歎きの一章か・・・・・・

 

  子曰:

 

「聖人,吾不得而見之矣;

 

得見君子者,斯可矣。」

 

子曰:

 

「善人,吾不得而見之矣;

 

得見有恆者,斯可矣。

 

亡而為有,?而為盈,

 

約而為泰,難乎有恆矣。」

 

述而: 孔子?:「聖人,我不可能看到了;能看到君子,也就可以了。善人,我不可能看到了;能看到一心向善的人,也就可以了。沒有卻裝作擁有、空?卻裝作充實、貧窮卻裝作富裕,打腫臉充胖子的人,很難一心向善!」

 

 

 

述而第七の第30章

 仁(「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」)とは人間の道である。

 其れは手の届かない遠いところに有るのだろうか・・・

 そうではない、「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」は人間が其れを求めるとき、直ぐ其処にある。

【屁理屈】

 人は動物として個体の保持と種の継承という本能があり、其れは生物としての義務でもある。人類が食物連鎖の頂点に立って以来、人類としての社会を形成し「理性」を習得したが、理性は本能の下にあって、本能を越えることはない。

 生物は自己保全と種の継承を維持する為に、本能に依り行動をするか、或いは理性に依る行動をするかは、それぞれの利害得失を基準に判断される。

 成果を得る為に要する期間の多少によって、本能による行動を執るか、理性による行動を執るかに分けられる。

 成果を得る為に要する期間が少なければ、本能によって強奪や窃盗や詐欺などが行われる。即ち“不仁”である。

 成果を得る為に要する期間が多ければ、理性によって謙虚や勤勉や慈愛や誠実や寛容が行われる。即ち“仁”である。

 何故に人は不仁の行為を執るのかと謂えば、個体の保持と種の継承が危ぶまれる状況に到ったとき、其れを回避する手段として、理性を棄て本能を執る。

 人は、国家が安定し、差別されることがなければ、例え貧しくとも、“不仁”の道を執る事は少ない。

 国家が富んで居る國でも、貧富の差が多く差別されることが多いと、人民は“不仁”の道を執ることが多い。

 貧しい人には財物が乏しい。即ち見方を換えれば失う物が少ないと謂える。例え官憲に囚われても、失う物が少ないのである。損得勘定から見て、何時も官憲に囚われる訳ではないので、泥棒をした方が益になる。

 因って“不仁”に到る原因として、国家の不安定と差別が、大きな要因として挙げられる。

 孔子は“仁”に生きるか“不仁”に生きるかは、個個人に委ねられている!と謂いたいそうだが、それ以前に国家の安定と差別のない社会と周囲の環境が前提として要求される。

 

  子曰:

 

「仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。」

 

述而: 孔子?:「仁離我們很遠??我想要仁,仁就來了。」

 

 

 

泰伯第八の第5章

 才能があっても其れに溺れず、自分以下の者にも意見を求める。

 どんなに知識が豊かであっても、其れだけに頼らず、他人の見聞を集める。

 争いを仕掛けられても相手にしない。

 昔 私の友人はそう言うことに励んでいた。

【屁理屈】

 理想的な指導者と云えるでしょう。とても屁理屈など云えません。

 

  曾子曰:

 

「以能問於不能,以多問於寡;

 

有若無,實若?,

 

犯而不校,昔者吾友嘗從事於斯矣。」

 

泰伯: 曾子?:「自己才華溢卻向俗人請教,自己知識淵博卻向文盲請教;有知識謙?為沒知識,有才能謙?為沒才能,從不計較別人的無理冒犯。從前我的一個朋友就是這樣做的。」

 

 

 

泰伯第八の第6章

 幼い幼児を預けても安心できる人

 安心して一国の政治を任せられる人

 重大な局面に立っても毅然としている人

【屁理屈】

 著者には大物政治家の知り合いは居ないが、報道で見る限り、大物と言われる人物は、柔和と知性と毅然が備わっているように見受けられる。

 私生活の場面を見受けると、公務中の毅然さは影を潜め、好好爺然としている。

 公務に携わっては、知性として普遍的な歴史認識が備わっていて、確固とした政治信念に基づいて執務されているように見受けられる。

 其れに引き替え、小物政治家は、知性として普遍的な歴史認識に欠け、行動が場当たり的で、政治信念の首尾一貫性に欠け、相手の粗探しに奔走することが多い。

 即ち国家繁栄の策を練るよりは、自己保全の策を練ることが多い。

 政治の趨勢を判断するには近年の歴史認識が重要で、縄文時代の歴史に詳しくとも何の役にも立たない。

 近代史は、戦勝国が書き直した歴史を疑うこともせず、真に受けて居るようでは、日本国家を語る人物には相応しくない。

 

  曾子曰:

 

「可以託六尺之孤,

 

可以寄百里之命,

 

臨大節而不可奪也。

 

君子人與?

 

君子人也。」

 

泰伯: 曾子?:「可以托付孤兒,可以托付江山,生死關頭,臨危不懼的人。是君子??當然是君子。」

 

 

 

泰伯第八の第10章

 勇敢な行為を好む人が、自分が貧乏なことに不平を持って行動すると、傍迷惑に成りかねない。

 仁や道徳観念の乏しい人を怨み遠ざけたいと思うのはよいが、その一念で凝り固まると、はた迷惑に成りかねない。

【屁理屈】

 現実にこういう人は珍しくはない。「仁」に対する間違った理解は、却って不仁の行為と成る事への戒めである。

 “他人”の迷惑を考えず、正論と称して過剰に主張する行為は、却って我欲の権化である。

 国政の重要要件について反対行動を起こす“人”が居て、報道機関は此を聲高に放映する。

 日本国民一億数千万人の中の、何人が異義を唱えているのか?を考慮しないと、誤った判断を下す端緒に成りかねない。

 報道による民衆煽動の懸念もある。

 

  子曰:

 

「好勇疾貧,亂也。

 

人而不仁,疾之已甚,

 

亂也。」

 

泰伯: 孔子?:「崇尚勇猛而討厭貧困的人,是禍害;被人唾棄的沒良心的人,是禍害。」

 

 

 

泰伯第八の第14章

 その地位に就いていなければ、その政治には口出しをしない。

【屁理屈】

 わしは口を出すが手を出さない・・・・だってわしには口出しは出来るが実行できる能力も無いし、結果に責任を負う気もないし!

 だから何時でも逃げられるように、逃げ口は確保しているよ!

 ただ口出しをすると彼奴は偉い!と勘違いしてくれる選挙民が居るからね!

 

  子曰:

 

「不在其位,

 

不謀其政。」

 

泰伯: 孔子?:「不在那個位置上,就不要想那個位置上的事。」

 

 

 

泰伯第八の第16章

 情熱家だが正直でない。

 子供っぽい純情さを持っているが、真面目でない

 愚直だが信頼感がない

 こういう連中は、手の施しようがない。

【屁理屈】

 こういう連中は彼方此方にいます。一見すると、役に立ちそうと思えるが、結果として役に立たない。却って害になる。

 

  子曰:「狂而不直,

 

?而不愿,??而不信,

 

吾不知之矣。」

 

泰伯: 孔子?:「狂妄而不直率、幼稚而不老實、看上去忠厚卻不講信用,我無法理解這種人。」

 

 

 

子罕第九の第4章

 孔子には四つのものが無かった

 主観で憶測すること

 自分の考えを無理矢理押し通すこと

 固執すること

 自分本位の考えを持つこと

【屁理屈】

 “ひと”には“負けたくない”と謂う本能がある。弱い部分があると、其れを補う対抗手段として、孔子の弟子が挙げた上記の四っが出て来る。

 四っに該当する人は孔子先生だけかも知れないが、一っ二っの人は、珍しくはない。各自、拾い出してみよう。

 自己主張は必要だが、淘汰されて残った主張で無いと、却って自分勝手な主張になる

 

  子?四:毋意,毋必,毋固,毋我。

 

子罕: 孔子杜?四種弊病:不主觀臆斷,不?對肯定,不固執己見,不唯我獨尊。」

 

 

 

子罕第九の第10章

 喪服を着た人

 礼服を着た人

 目の不自由な人

 これらの人達に出会ったとき、孔子は立ち止まって迎え、その前を通るときは歩き方に注意した。

【屁理屈】

 禮の根本理念は相手を気遣い、相手を尊重する心である。我先に電車に乗り込んだり、便所になだれ込んだり・・・・・、文明国と云われている国でも見たことはありますが、少なくとも日本人はそんなことは致しません。

 

  子見齊衰者、冕衣裳者與瞽者,

 

見之,雖少必作;

 

過之,必趨。

 

子罕: 孔子見戴孝的人、穿官服的人、以及盲人,即使是年輕人,也必定站起來;從他們身邊過,必定快走。

 

 

 

它山之石

 たざんのいし

 よその山から出たつまらない石でも、自分の玉を磨く砥石として役立つ。

 自分に関係のないよくない出来事や他人の誤った言行でも、それを参考にすれば自分の修養の助けになるということ。

【屁理屈】

 余所に居る者の中にも、私の修養に益するものがある!と謂う意味で、厭くまで主体は此方である。

 詩経の作品は現代漢詩詞の源典と謂える作品集である。

 

  鶴鳴于九皋 聲聞于天

 

  魚在于渚 或潛在淵

 

  樂彼之園 爰有樹檀

 

  其下維穀

 

  它山之石 可以攻玉

 

〔出典〕 『詩経』小雅・鶴鳴

 

 

 

子罕第九の第24章

 正面切って道理を説かれると、誰でもその場は、“成る程!”と頷かざるを得ない。

 だが大事なのは其の過ちを改めることだ。

 やさしく婉曲に注意してもらうと、誰でも気持よく其れに耳を傾けることができる。

 だが、大事なのは、その真意のある處をよく考えてみることだ。

 いい気になって真意を考えてみようともせず、表面だけ従って過ちを改めようとしない人は、私には全く手のつけようがない

【屁理屈】

 孔子も相手の依って立つところが違えば、説得のしようがない!と云っている。その事は昔でも今でも同じで、“依って立つところ”とは、その“ひと”が物事を判断する判断基準である。

 其の判断基準は、生まれながらと、長年の生育環境によって身に付いた能力で、“ひと”はこの判断基準に沿って、甲か乙か、左か右か・・・・・の判断を一瞬一瞬で為して個体を保持し命脈を保っているのである。 即ち生きているのである!

 この判断基準は個個独自で、人が異なれば同一の物事に對して同一の判断が示されるとは限らない。

 孔子の思想は孔子個人の思想であって、同一の、或いは至近の思想の“ひと”には理解されるが、離れた思想を持っている者に対しては、説得が難しい!と、孔子自身が認めている。

 

子曰。

 

法語之言。

 

能無從乎。

 

改之爲貴。

 

巽與之言。

 

能無説乎。

 

繹之爲貴。

 

説而不繹。

 

從而不改。

 

吾末如之何也已矣。

 

子罕: 孔子?:「合情合理的規勸,能不聽從??改正了錯誤才是可貴;恭維贊揚的話語,能不令人高興??分析了原因才是可貴。?高興而不分析、?聽從而不改正的人,我是一點?法也沒有。」

 

 

 

子罕第九の第27章

 自分はボロを着ていても豪華な毛皮を纏った人の傍に並ぶ

 其れでも何の引け目も感じないで、堂堂としている

 其れは、その人の心が高いからである

 其れは志の高かった弟子の子路(由)のことである。

 人を害せず、無理な要求はしない、かくて我が身も善し

 子路は此の詩経の句を自分の戒律として、何時も口ずさんでいた

 孔子は此を咎めて云った

 其れで善しとは云えない

 もっと積極的な心構えが欲しいね!

【屁理屈】

 自分の心がしっかりしていれば、周囲に惑わされることもなく、独立自尊の生き方と、著者でも思い付くことだが、孔子の云う「其れで善しとは云えない。もっと積極的な心構えが欲しい」とは、どういう事を指しているのか著者には分かりにくい。

 

  子曰:

 

「衣敝?袍,與衣狐貉者立,

 

而不恥者,其由也與?

 

『不?不求,何用不臧?』」

 

子路終身誦之。

 

子曰:

 

「是道也,何足以臧?」

 

子罕: 孔子?:「穿著破舊衣服,與穿著狐皮貉皮衣服的人站在一起,而不感到慚愧的人,大概?有子路??『不嫉?不貪婪,有何不好?』」子路終身記著這話。孔子知道後,又?:「這是應該做到的,怎得滿足?」

 

 

 

子罕第九の第30章

 一緒に学んだ仲間でも、同じ道を選ぶとは限らない。

 一緒の道を選んだとしても、事に当たって同じ行動を執るとは限らない。

 同じ行動を執ったとしても、状況判断が同じとは限らない。

 考えも行動も、人は様々である。

【屁理屈】

 山に登るのに幾筋もの道があると同じように、人それぞれの能力や都合に合わせて、何処から登っても、どの様に登っても、目指すところは皆同じである。

 仁徳を身に付け社会・国家が平和に成るようにすることが目標なら、その方法は違っても良いではないか。

 ただどんな方法でも頂上に登れるかと云えば、上れる方法と上れない方法がある。

 どの登山も頂上まで続いているかと謂えば、途中で道が崩れていたり、行き止まりだったりして、強ちそうとも限らない。

 

  子曰:

 

「可與共學,

 

未可與適道;

 

可與適道,

 

未可與立;

 

可與立,未可與權。」

 

子罕: 孔子?:「共同學習,不一定能共同進?;共同進?,不一定能共同創業;共同創業,不一定能共同開拓。」

 

 

 

郷党第十の第10章

 村人と飲酒をされるときでも、老人が退席したときでないと退席しない。

 村人が鬼やらいに来ると礼服を着け、玄関に立って其れを迎えられる。

【屁理屈】

 孔子の礼儀正しい日常が書かれている。礼儀は先ず相手を尊重することから始まる。

 禮の本質は相手を尊重する事が基本で、表に現れる有様は結果としての顕れである。

 

  ?人飲酒,杖者出,斯出矣。

 

?人儺,朝服而立於?階。

 

?黨: ?親們的飲酒儀式結束時,要等老人出去後,才能出去。?親們舉行驅鬼儀式時,要穿朝服站在東邊的臺階上。

 

 

 

先進第十一の第20章

 子張が善人の生き方について尋ねた。

 古い習慣にただ従うと云うだけではなく、少しは創造的であること、かと云って

 一番奥深いところに達しないのが善人である。

【屁理屈】

 自己満足をしない!と言う心構えが必要だ。

 一番深いところに達してしまうと、それから先がない。

 

  子張問善人之道。

 

子曰:

 

「不踐跡,亦不入於室。」

 

先進: 子張問做善人的方法。孔子?:「不踏著前人的?印走,學問也就難以精通。」

 

 

 

先進第十一の第25章

 子路が後輩の子羔を費という都市の長官に推薦したことについて、孔子が咎めた。

 未熟者を重職に就けて荷が重すぎないかね。

 子路は抗弁した。

 未熟だから長官に適さないと云うのですか!

 人民を治める経験だって勉強です。

 読書だけが勉強だとは思いません

 孔子・・・

 だから口達者なやつは嫌いだ!

【屁理屈】

 口達者には口先だけの口達者と、中身の詰まった口達者が居る。中身が詰まっていても意見が表に出なければ、知らないことと同じではないのかな?

 中身が詰まっているのなら、意見を表に出す技倆も能力の一つではないのか

 もう一点、現実の社会では知っているのに口を出さない、矢鱈に用心深い人が居た。

 彼は出来ればこの儘定年を迎えたい。其れには必要最低限のことしかしない。そうすれば其れだけ失敗が少ない。先の近付いた宮仕えにとって、減点は厳しい!

 彼は殆ど見なかったことにして、目出度く定年を迎えました。

 

  子路使子羔為費宰。

 

子曰:

 

「賊夫人之子。」

 

子路曰:

 

「有民人焉,有社稷焉。

 

何必讀書,

 

然後為學?」

 

子曰:

 

「是故惡夫佞者。」

 

先進: 子路派子羔當費市市長。孔子?:「這是誤人子弟。」子路?:「有人民,有土地,何必讀書,才算學習?」孔子?:「這真是強詞奪理。」

 

 

 

願淵第十二の第2章

 仁とは何かという仲弓の質問に答えた。

 一歩外に出て人と接するときは、賓客に接するように鄭重な態度で接することだ。

 人を使うときは、大祭に臨むときと同じように、敬虔な態度で細かく気を配ること。

 又人からされたくないことは自分も“他人”にしないことだ。

【屁理屈】

 「仁」とは「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」の要約された定義で、人が仁で有るためには、相手を尊重することが根底に無ければならない。

 「仁」に就いて“仁を為すは己による。而して人に依らんや”という文言がある。神様に言われて行動を起こすようでは「仁」と云えない。

 宗教とは一線を画す文言である。

 

  仲弓問仁。

 

子曰:

 

「出門如見大賓,

 

使民如承大祭。

 

己所不欲,勿施於人。

 

在邦無怨,在家無怨。」

 

仲弓曰:

 

「雍雖不敏,請事斯語矣。」

 

顏淵: 仲弓問仁。孔子?:「出門時要象會見貴賓一樣莊重,建工程時要象舉行盛大祭典一樣嚴肅。自己不願做的,不要強加於人。同事中相處融洽,親屬中和睦友愛。」仲弓?:「我雖不才,願照此?理。」

 

 

 

願淵第十二の第10章

 弟子の子張が孔子に尋ねた

 先生・・・道徳意識を高め惑いを無くす弁別法について教えてください。

 孔子・・・誠実であることを根本に措き“義”即ち正しきことを基準とする。

 此が道徳意識を向上させるものだ。

 孔子・・・是非の弁別については、感情に駆られて、ある人が好きになれば生きて欲しいと思い、相手を嫌いになれば、早く死ねばよいと思う。

 同一人物について、生と死と云う全く相反することを望むなど、其れこそ矛盾である。

 此では是非の弁別は付かない、と、云われても仕方がない。

【屁理屈】

 孔子の言行録を論語と言い、儒教と云われる。儒教教と云われると、何やら宗教めいて居て、理解不能な事を言うのかと思うと、全くそんなことはない。

 総ての言行は道理が通って居て、誰が考えても至極当たり前の事である。この当たり前だが中々出来ないことを示唆してくれるのが「論語・儒教」の本質である。

 

  子張問崇コ、辨惑。

 

子曰:

 

「主忠信,徙義,崇コ也。

 

愛之欲其生,

 

惡之欲其死。

 

既欲其生,

 

又欲其死,是惑也。

 

顏淵: 子張問提高品コ、明辨是非。孔子?:「以忠信為宗旨,弘揚正義,就可以提高品コ。對一個人,愛的時候,就希望他長生不老;恨的時候,就希望他馬上去死。既?他長生,又?他快死,這就是不辨是非。這樣做對自己沒好處,?能使人覺得?不正常。」

 

 

 

顔淵第十二の第23章

 真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。

 無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない。

【屁理屈】

 “ひと”の物事判断の基準は少年期青年期以降に備わったとは限らない。その根幹を成す判断基準は生まれて間もなくに持ち合わせ居てる場合が多い。

 少年期青年期以降に備わった判断基準ならば、説得によって変更可能だが、生まれて間もなくに芽生えて育てられた判断基準を変更させることは頗る難しい。

 変更を試みて、説得できた!と思っても、口上手に依って、表面を繕ったに過ぎないのである。孔子もその事を知っていて、早く手を引くことを判断したのである。

 

子貢問友。

 

子曰。

 

忠告而善道之。

 

不可則止。

 

毋自辱焉。

 

顏淵: 子貢問怎?交友。孔子?:「忠心地勸告,善意地引導,不聽則止,不要自取其辱。」

 

 

 

子路第十三の第21章

 行動を共にする人を撰ぶなら、中道を行く人がよい。

 その様な人物が居なかったら、“狂”の人か、“狷”の人と行動を共にしよう。

 “狂”の人は果敢に行動し進取の気性に富む人である。

 “狷”の人は意地っ張りで頑なだが、悪いことだと思えば決してやらない。

【屁理屈】

 “狂”も“狷”も中道ではないが、周りに左右されないハッキリした主体性を持っている。主体性のある人物を撰ぶことが肝要だ。

 主体性のない人物は、相手次第でコロコロと替わるから、主体性のない人物とは関わらない方が無難だ。

 

  子曰:

 

「不得中行而與之,必也狂狷乎!

 

狂者進取,狷者有所不為也。」

 

子路: 孔子?:「我找不到中庸的人交往了,?能與狂妄或拘謹的人交往。狂妄者膽大妄為,拘謹者膽小怕事。」

 

 

 

朝三暮四

 ちょうさんぼし

 目の前の相違にとらわれて、結果が同じになることに気づかない。

【屁理屈】

 お猿さん相手の話なので、この話は纏まるが、人間相手だと斯くも簡単に話が纏まるとは限らない。

 朝と暮の間に時間差がある。この朝と暮の間に不確定要素が入り込む余地がある。

 そうすると暮れに受け取るより朝受け取った方が確実となる。お猿さんはお馬鹿さんではなくて賢かったのだ!

 

  宋有狙公者。

 

愛狙養之成群。

 

能解狙之意、狙亦得公之心。

 

損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。

 

將限其食、

 

恐衆狙之不馴於己也。

 

  先誑之曰、與若?、

 

朝三而暮四、足乎。

 

衆狙皆起而怒。

 

俄而曰、與若?、

 

朝四而暮三、足乎。

 

衆狙皆伏而喜。

 

?狙公 … 猿を飼う者。

?狙 … 猿。

?家口 … 家族の食いぶちとしての食糧の分量。

?? … とちの実。どんぐりの一種。

?衆狙 … おおぜいの猿。

?伏 … ひれ伏す。

〔出典〕 『列子』黄帝、『荘子』斉物論 〔列子、黄帝〕

 

 

 

子路第十三の第23章

 良識ある人は人と仲よく交わるが、仲間には成らない。良識の無い人は仲間には成るが、ほんとうに仲よくはならない

【屁理屈】

 此を読む限り、自分のことは自分で為さなければ成らない。良識ある人は知識を授けてくれるが、一緒に行動しては呉れないし、良識の無い人は、仲間には成るが知識に乏しいので役には立たない。

 似通った内容に子曰。君子矜而不爭。羣而不黨。がある。

 

子曰。君子和而不同。小人同而不和。

 

子路: 孔子?:「君子和睦相處而不同流合?,小人同流合?而不能和睦相處。」

 

 

 

三人成虎

 さんにんとらとなる

 うそも多くの人が言えば、ついに真実だと信じるようになる。

【屁理屈】

 人の集まる處で、嘘話を広めると、嘘話ではなくて本当の事になる。即ち虎だ!虎はどう猛で何をするか判らない。

 虎を放った○○が有った。小虎の中は慈悲を誘って、次第に話を大きくして、まことしやかに語った。

 虎を放った人は虎が大きくなったら、“私は関係有りません・・・・”とそっぽを向いて知らんふり。

 小虎を放った○○も知らんふり。

 彼等にしてみれば、暴れ回る虎を放つ事が目的でしたから、もう目的は達成されました。

 今でも海外の彼方此方で暴れ回っているそうだ!

 

  夫市之無虎也明矣。

 

然而三人言而成虎。

?市 … 市場。

〔出典〕 『韓非子』内儲説・上

 

 

 

子路第十三の第26章

 “大物”はゆったりとしていて、人を見下したりはしない。

 “小者”は驕り高ぶり人を見下しながら、そのくせコセコセしている。

【屁理屈】

 “大物”は自分の内容が豊かで信念も篤いので、泰然としておおらかな態度である。

 “小者”は中味も信念も薄っぺらで、落ち着いてなど居られない。だから威張りたがる。

 周囲を見舞わしてご覧なさい。この人は“小者”あの人は“大物”の区別が付きます。そしてその行動を観察するのも意義深い!悪趣味かな・・・・・・少なくとも、“小者”には成りたくないですね!

 

  子曰:

 

「君子泰而不驕,

 

小人驕而不泰。」

 

子路: 孔子?:「君子坦蕩而不驕狂,小人驕狂而不坦蕩。」

 

 

 

子路第十三の第27章

 剛健な意志、毅然たる節操、表裏のない質朴さ、粉飾のない訥々たる言葉、こうした資質は、最高の徳たる仁に近い徳である

【屁理屈】

 こういう人は、あれこれ謂わなくとも、純朴で陰ひなたの無い人であろう事は、概ね納得できる。見方を換えるとこういう人は余り世渡りの上手で無い人が多い。

 因って視点を換えれば、世渡り上手になるには、この塩梅が必要であるとも云える。ただ塩梅と云っても、不謙虚、不勤勉、不慈愛、不誠実、不寛容はダメである。

 

子曰。

 

剛毅木訥。

 

近仁。

 

子路: 孔子?:「剛強、堅毅、樸實、話少,這四種品コ接近於仁。」

 

 

 

憲問第十四の第4章

 徳のある人は立派なことを云う。

 立派なことを云うから徳があるとは限らない。

 仁徳のある人は勇気がある。

 勇気があるからと云って、仁徳があるとは限らない。

【屁理屈】

 孔子先生の謂われることは、物事の本質を指しているのだが、現実の社会に目を移せば、今の世の中、ものを言い、ものを書きを生業としている人は沢山居る。

 其れは生業としての行為で、この章の本質とは限らない。

 依って、政治家や評論家や専門家の謂いには惑わされ易く、謂っていることや書いていることと、ご当人の本質とは別物である事を前提にしければならない。

 ただ政治家の場合は、清濁併せ呑む度量がなければ政策の貫徹が出来ないと謂われて居て、国家を利する行為か或いは自己を利する行為かを見抜くには、広範な知識が必要である。

 

  子曰:

 

「有コ者,必有言。

 

有言者,不必有コ。

 

仁者,必有勇。

 

勇者,不必有仁。」

 

憲問: 孔子?:「品コ好的人一定言談也好,言談好的人不一定品コ好。高尚的人必定勇敢,勇敢的人不一定高尚。」

 

 

 

憲問第十四の第10章

 貧乏でも僻まない事は難しい

 金持ちでも威張らない事は易しい

【屁理屈】

 逆境にある時、“ひと”の本性が出る。

 裕福なときはあんなにも優しかった彼が、事業が左前に成ったら、酷い男に成った!とは、決して珍しい話ではない。

 

  子曰:

 

「貧而無怨難,

 

富而無驕易。」

 

憲問: 孔子?:「貧窮而無怨恨很難,富裕而不驕狂容易。」

 

 

 

憲問第十四の第20章

 自分の言葉に責任が持てないようでは、実行するのは難しい。

【屁理屈】

 政治家にこういう人は沢山居る。“謂うだけなら幼児でも謂える”。民衆は目前の“利”に惑わされやすく、政権が換わったら実行能力に欠けた口先だけの政治家ばかりで、酷い世の中になった!とは、珍しい話ではない。

 安寧が続くと、その安寧が通常と勘違いして、それ以上の利益を要求するようになる。“美味しい饅頭の味を知ってしまうと、毒饅頭にも手を出す”

 但、評論家は道筋を解析することが仕事で、為政者ではないので、この趣旨には当て嵌まらない。

 

  子曰:

 

「其言之不?,則為之也難。」

 

憲問: 孔子?:「?話大言不慚,做起來就難了。」

 

 

 

憲問第十四の第29章

 子貢が色々と人を批判しているのを聞いて孔子が謂った。

 子貢は偉いんだね!わたしには、そんな暇はないよ

【屁理屈】

 “ひと”は“他人”より上位でありたいと謂う本能がある。因って、生半可な記事であることは承知だが、週刊誌の記事は好きだし、○○政治家は“他人”の瑕捜しに躍起になる。

 其れは、その場面を見て選挙民が喜んでくれるからである。

 

  子貢方人。

 

子曰:

 

「賜也賢乎哉?夫我則不暇。」

 

憲問: 子貢誹謗別人,孔子?:「子貢?,?就那?好??我可沒這個闕H夫。」

 

 

 

憲問第十四の第31章

 騙されないかという警戒心、信用されないのではないかという猜疑心、

 そう言うものに拘らず、素直に相手の話を聴いて、その意図を読み取れる人こそ賢人である。

【屁理屈】

 人と接するには、相手を勘ぐるより先に、素直に相手の話を聴くことが大切だ!と孔子先生は謂うが、この話には前提がある。

 其れは勘ぐらないのではなくて、勘ぐる必要がない!と言う前提である。

 其れは何故か?相手の話を聴いただけで相手の腹の内が読み取れるのである。

 其れなら勘ぐる必要がないのは当然で、もし、相手の腹の内を読み取る能力が無いのなら、有りっ丈の能力を使って、相手の腹の内を探らなければならない。

 もし其れを怠ると、騙されて酷い目に遇うかも知れない。

 其れは孔子先生の示唆が悪いのではなくて、貴方が其の前提に気が付けば良いだけのことです。

 

  子曰:

 

「不逆詐,不億不信。

 

抑亦先覺者,是賢乎!」

 

憲問: 孔子?:「不要事先懷疑別人欺詐,不要事先懷疑別人不講信用,如果能預先覺察到欺詐和撒?,就是賢人了。」

 

 

 

憲問第十四の第41章

 上に立つものが礼儀を弁えていれば、人民も慎ましくなり使いやすくなる。

【屁理屈】

 会社で謂えば上司が礼儀を弁えていれば、部下も慎ましくなり、使いやすくなる。

 家庭では、父親が仁徳を弁えていれば、家属一同仁徳を弁えた家属になる。父親が仁徳を弁えていないと、子供も仁徳を弁えない。

 子は親を模範として見習っているのだから・・・・・

 

  子曰:

 

「上好禮,則民易使也。」

 

憲問: 孔子?:「領導尊崇道コ規範,群衆就樂意聽指揮。」

 

 

 

憲問第十四の第44章

 闕黨と謂う村から来た一人の少年が孔子先生の家の玄関番をしていた。

 其れを見たある人が、孔子に尋ねた。

 あの少年は、向学心が有るのですか?

 いやいや・・其れは子供のくせに大人と同席したり、年長者とも肩を並べて歩きたがっているだけ。

 向学心などではなくて大人の真似をして、早く大人に見られたい丈の子供だよ!

【屁理屈】

 此の題材は子供だが、大人にもこういう人は珍しい存在ではない。

 

 闕黨童子將命。

 

或問之曰:

 

「益者與?

 

」子曰:

 

「吾見其居於位也,見其與先生並行也。

 

非求益者也,欲速成者也。」

 

憲問: 孔子外婆家的童子來傳話,有人問:「是個要求上進的孩子??」孔子?:「我見他與長輩同坐同行。他不是個要求上進的人,而是個急於求成的人。」

 

 

 

月滿則虧

 つきみつればすなわちかける

 満月になると必ず欠ける。盛んなことは必ず衰え始める

【屁理屈】

 この示唆は百発百中

 こんなに上手く行く筈がない・・・・もうそろそろ下りだろう

 こんなに儲かるわけがない・・・・もうそろそろ下りだろう

 もっともっとと、自分からのめり込んで、気が付いたときは引き返せません。自分で自分を抑制出来なくなるのです。

 空一杯に覆い被さるようなお月様は有りません。

 色々な場面に当て嵌めてみると、程ほどに先が見えて、破産せずに済みます・・・・・

 

  語曰:

 

日中則移、月滿則虧。

 

物盛則衰、天地之常數也。

 

進退盈縮、與時變化。

 

聖人之常道也。

 

?中 … 中天に達する。

?虧く … 月が欠ける。

?常数 … 自然に定まっている運命。

?盈縮 … 満ちることと縮むこと。

?常道 … 定まったあり方。

〔出典〕 『史記』蔡沢伝

 

 

 

衛霊公第十五の第8章

 共に語り合える人に出会いながら、語り合わないのは、友を失うことになる。

 語りたくない人と語り合うのは、言葉の浪費である。

 知者は友人を失うこともないし、また言葉も失わない。

【屁理屈】

 語り合える人と語り合えないのは、知識と時間の無駄と謂うけれど、語り合うには、先ず自分の知識が相手の言葉に手が届かなければ成らない。

 自分の知識が低すぎると相手の語っていることがチンプンカンプンで理解できない。此では到底、相手と語り合うことは不可能だ!

 人が死ぬまでに持ち合わせている時間は、無限ではない。無駄話をするのは、時間と言葉の浪費で有る。長話は、時間と電話料金の無駄遣いである。

 お金は補充できるが、時間は再生産も補充も出来ない。時間の無駄遣いは人生最大の無駄遣いである。

 

  子曰:

 

「可與言而不與之言,失人;

 

不可與言而與之言,失言。

 

知者不失人,亦不失言。」

 

衛靈公: 孔子?:「遇到可以?的人卻不?,就會失去可與?話的人;遇到不可?的人卻?了,就是?話冒失。聰明的人既不去可交談的人,也不言談冒失。」

 

 

 

衛霊公第十五の第9章

 志のある人や人徳を具えた人は、命惜しさに仁徳に反するようなことはしない。

 むしろ仁徳を守るために、自分の命を投げ出すことも辞さない。

【屁理屈】

 わが子を助けるために急流に身を投じる人もいれば、他人の子供を助けるために身を投じる人もいる。

 その逆もいる

 

  子曰:

 

「志士仁人,無求生以害仁,

 

有殺身以成仁。」

 

衛靈公: 孔子?:「志士仁人中,沒有貪生怕死出賣正義的人,卻有捨生忘死維護正義的人。」

 

 

 

衛霊公第十五の第15章

 自分を責めることにきびしくて、他人を責めることがゆるやかであれば、人に怨まれることはない

【屁理屈】

 尤もなことだ!とかく自分に易しく相手に厳しくなりがちだ・・・・

 配偶者や子供に言われませんか?・・・・・・

 

 子曰。躬自厚而薄責於人。

 

則遠怨矣。

 

衛靈公: 孔子?:「多責備自己,少責備別人,就可以避免怨恨。」

 

 

 

衛霊公第十五の第22章

 君主は自信に満ちていて、無闇に“他人”と争ったりしない。

 “他人”と協調はするが派閥は作らない。

【屁理屈】

 俗語に“金持ち喧嘩せず”と謂う言葉がある。“大物”は矢鱈に争うことはしない。何故かと言えば、相手のことは百も承知なので、落としどころを知っているからだ!

 他人と争って利することは少ないが、損することは多い・・・・事を、経験で知っている。

 

  子曰:

 

「君子矜而不爭,群而不黨。」

 

衛靈公: 孔子?:「君子舉止莊重,與世無爭;團結群衆,又不結黨營私。」

 

 

 

衛霊公第十五の第28章

 みんなが嫌っている人でも、必ず自分の眼で確かめてみる。

 みんなに好かれている人でも、必ず自分の眼で確かめてみる。

【屁理屈】

 衆愚と謂う言葉も有るので、みんなが・・・・・と謂う事も余り当てにはならない。

 判断を“他人”に委ねない!を徹底していれば、自ずと自分で確かめる!と謂うこととなる。

 世の中、知っていることばかりとは限らない。判らない問題があると直ぐに「聞いてみよう」と謂う人が居る。

 此は、自分の判断を放擲するすることでもある。先ず自分で色々探ってみて、遂に自分では判らない!と謂うことが判ったなら、その次に聞いてみる・・・と謂う行為に続く。

 自分で為した判断の結果が、可否何れでも、自分のことは自分で責任を持たねばならない。此が自分が自分であることの責務であり証でもある。

 

  子曰:

 

「?惡之,必察焉;

 

?好之,必察焉。」

 

衛靈公: 孔子?:「衆人厭惡的,必須仔細觀察;衆人喜歡的,必須仔細觀察。」

 

 

 

衛霊公第十五の第40章

 道が同じでなければ相談しても仕方がない

【屁理屈】

 人によっても、家庭によっても、地域によっても、國によっても、民族によっても、物事の考え方は其れそれぞれで、何らかの他力的な方向付けをしない限り、人はそれぞれ自由な考え方で生きている。

 然し宗教では“お告げ”と称して、他力的に宗教特有の方向付けを為しているが、孔子先生は、其れを他力的に導き正す!などとは、謂っていない。

 論語の根幹は厭くまで“ひと”個人の自発的な行為を前提にしていて、其れを“仁”(「謙虚」と「勤勉」と「慈愛」と「誠実」と「寛容」)に依って、平穏な社会を構築しようと謂う思想である。

 この思想は“感謝の念を根幹にする神道”と“仁を根幹にする孔子の論語”とが共通する思想の根幹である。

 

  子曰:

 

「道不同,不相為謀。」

 

衛靈公: 孔子?:「立場不同、觀點不同,也就不要相互商議了。」

 

 

 

衛霊公第十五の第42章

 冕と謂う盲目の薬師が孔子を尋ねてきた。

 出迎えた孔子は、階段に差し掛かると、「階段ですよ!」と声を掛けた。

 部屋に入り座席に着くと「お席ですよ!」と教えて遣った。

 全員が着席すると孔子は、誰それは彼方、誰それは此方と、一人一人を紹介した。

 冕が帰ってから子張が尋ねた。

「あれほどまでに為さるものですか?」

「そうだよ!目の不自由な人には、あそこまでしてあげなくてはね」

【屁理屈】

 何事に對しても、分け隔てのない思い遣りと、気配りが大切である。此こそが仁徳である。

 

  師冕見,及階,子曰:

 

「階也。」

 

及席,子曰:

 

「席也。」

 

皆坐,子告之曰:

 

「某在斯,某在斯。」

 

師冕出。

 

子張問曰:

 

「與師言之道與?」

 

子曰:

 

「然。

 

固相師之道也。」

 

衛靈公: 魯國的樂官來見孔子。走到臺階前,孔子?:「這是臺階。」走到坐席前,孔子?:「這是坐席。」都坐好後,孔子告訴他:「某人在這,某人在那。」樂官走後,子張問:「這是同盲人交談的方法??」孔子?:「是的,這就是?助盲人的方法。」

 

 

 

季氏第十六の第4章

 益友に三種、損友に三種ある。

 付き合ってためになる友

 剛直な人

 誠実な人

 博識な人

 付き合ってためにならない友

 易きに付きたがる人

 人当たりの良い人

 口先だけの人

【屁理屈】

 尤もな話だが、“ひと”には比較と云う性質がある。直言する人、信実な人、多識な人は、自分より上の人、言い換えれば自分が下に成る相手である。

 それに対して、形式家、盲従者、口上手は、自分より下の人である。言い換えれば自分が上になる相手である。

 因って注意を怠ると、“損友”に囲まれる弊に陥りやすい。

 付き合って益になる人は、自分に持ち合わせない物事を持っている人で、川上にある湖の如く下流に恩恵をもたらしてくれる。

 付き合って損になる人は、易きに付いたり、人当たりが良かったり、口先だけなら、差程の能力を必要とせず、川下の水溜の如く、たまに入って来るとすれば濁り水ぐらいで、此方からは流れ出るばかりで差ほど役には立たない。

 

  孔子曰:

 

「益者三友,損者三友。

 

友直,友諒,友多聞,

 

益矣。

 

友便辟,友善柔,友便佞,

 

損矣。」

 

季氏: 孔子?:「有益的朋友有三種,有害的朋友有三種。與正直的人交朋友、與誠實的人交朋友、與見多識廣的人交朋友,有益處;與走邪門歪道的人交朋友、與讒媚奉迎的人交朋友、與花言巧語的人交朋友,有害處。」

 

 

 

微子第十八の第4章

 魯の君臣を誘惑して、政治を乱す為に、斉は美人の歌舞団を贈った。

 魯の権臣季桓子が喜んで此を受け、君臣ともに見惚れて、三日間朝政を廃するに至った。

 此を知った先師はついに職を辞して魯を去った。

【屁理屈】

 今も昔も遣ることは同じだね!孔子は此の所行を知って腹を立てた。矢張り孔子先生ともなると、徹底しています。

 少しぐらいは・・・・・・ついズルズルと、成りかねません。

 

 齊人歸女樂。

 

季桓子受之。三日不朝。孔子行。

 

 微子: 齊國人送來一些歌女,季桓子接受了,三天不上朝。於是,孔子離開了魯國。

 

 

 

微子第十八の第3章

 斉の景公が、先師を採用するにつき、その待遇のことで云った。

 季氏ほどに待遇にはとても力に及ばないので、季氏と孟氏との間ぐらいのところにしたいと思う。

 然し、後で又云った。

 自分も、この老年になっては、孔子のような遠大な理想をもっている人を用いても仕方があるまい。

 先師はそのことを漏れ聞かれて、斉の国を去られた。

【屁理屈】

 この章を読む限り、有能な官吏を雇うには、其れなりの報酬が必要で、又孔子は中途半端な要求では自分の信念が許さないのだろう。徹底した信念でないと、“仁徳”の普及は難しいと云える。

 

 齊景公待孔子曰。若季氏。

 

則吾不能。

 

以季孟之間待之。

 

曰。

 

吾老矣。

 

不能用也。

 

孔子行。

 

  微子: 齊景公談到對待孔子的打算時,?:「要我象魯君對待季氏那樣對待孔子,我做不到,我可以用季氏和孟氏之間的待遇對待他。我老了,不能用孔子了。」於是,孔子離開了齊國。

 

 

 

天知、神知、我知、子知

 てんしる、かみしる、われしる、ししる

 天地の神々と私とあなたが知っている。悪事は必ず露見する

【屁理屈】

 幾ら秘密と言っても、相手と自分は知っている。神様だって知っているだろう。

 其れじゃあ筒抜けではないですか・・・・・

 

 至夜懷金十斤、

 

以遺震。

 

震曰、故人知君、君不知故人、何也。

 

密曰、暮夜無知者。

 

震曰、天知、神知、我知、子知、

 

何謂無知。

 

密愧而出。

 

?震 … 楊震。後漢の政治家。

?密 … 王密。昌邑の長官。

?暮夜 … 夜中。

〔出典〕 『後漢書』楊震伝、『十八史略』東漢・孝安皇帝

 

 

 

陽貨第十七の第16章

 昔も三種の嫌われ者が居た。然し彼等には彼等なりの良さがあった。

 今では其の良さもない。

 昔の無法者は太っ腹だった

 今の無法者はただの暴れん坊

 昔の頑固者は、頑固の中にも筋を通した

 今の頑固者は、直ぐに腹を立てて喧嘩するだけ

 昔のバカ者は、愚直なりの良さがあった

 今のバカ者は、人を騙すことばかり考えている。

【屁理屈】

 この話、現代に置き換えても当て嵌まりそうだ。

 

   子曰:

 

「古者民有三疾,今也或是之亡也。

 

古之狂也肆,今之狂也蕩;

 

古之矜也廉,今之矜也忿?;

 

古之愚也直,今之愚也詐而已矣。」

 

陽貨: 孔子?:「古人有三種偏激的毛病,今人或許沒有:古代的狂人肆意直言,今天的狂人放蕩不羈;古代的高傲者威不可犯,今天的高傲者凶惡蠻;古代的愚人天真直率,今天的愚人狡詐無ョ。」

 

 

 

陽貨第十七の第25章

 女子と小人は扱いにくい。

 近づければつけあがり、遠ざければ逆恨みする。

【屁理屈】

 孔子先生は昔の人、今と昔は違います!

 子供を育てるお母さんの姿を見てご覧なさい。子供を育てることは物凄く大変な事なのです。何しろ国家滅亡の危機を支えているのは、子供を産み育てているお母さんなのです。

 子供を自転車に乗せて、もう1人をおんぶして、買い物袋を下げて、自動車の多い道路を汗だくで買い物に行くのです。

 世のお父さん方、此が毎日出来ますか!

 もっともっと評価してください。

 

  子曰。

 

唯女子與小人爲難養也。

 

近之則不孫。

 

遠之則怨。

 

陽貨: 孔子?:「唯女子與小人難以對付。太親近了,他們就會失禮;太疏遠了,他們就會怨恨。」

 

 

 

陽貨第十七の第26章

 四十歳になっても人から憎まれているようでは、もうお終いだね!

 【屁理屈】

 尤もな話だが、御本人が気付いて居ないのだから、治りようがない。

 

  子曰:

 

「年四十而見惡焉,其終也已。」

 

陽貨: 孔子?:「四十?還讓人厭惡的人,一輩子都完了。」

 

 

 

陽貨第十七の第24章

 子貢がたずねた。

 君子も人を憎むということがありましょうか。

 孔子がこたえられた。それはあるとも。

 他人の悪事をいい立てるものを憎むのだ。

 下位にいて、上をそしる者を憎むのだ。

 勇気だけが有って礼のないものを憎むのだ。

 思いきりがよくて道理にもとるものを憎むのだ。

 それから、子貢にたずねられた。お前にも憎む人があるのか。子貢がこたえた。

 先まわりして物事をさぐっておいて、知ったかぶりする者を憎みます。

 傲慢不遜を勇気だと心得ている者を憎みます。

 人の秘密をあばいて正直だと思っている者を憎みます

【屁理屈】

 それ程難しい謂いではないので、一つ一つ例を挙げて検討しましょう。

 現代の政治家や評論家の云っていることの云々は解りませんが、は、此に該当する人で溢れています。真偽を確かめもせず其れを真に受ける民衆も溢れています。

 民衆は彼等にとっては購読者であり選挙権行使者なのですから、大切なお客様です。

 

 子貢曰。

 

君子亦有惡乎。

 

子曰。

 

有惡。

 

惡称人之惡者。

 

惡居下流而?上者。

 

惡勇而無禮者。

 

惡果敢而窒者。

 

曰。

 

賜也亦有惡乎。

 

惡徼以爲知者。

 

惡不孫以爲勇者。

 

惡訐以爲直者。

 

陽貨: 子貢?:「君子也有厭惡的人??」孔子?:「有。厭惡宣揚別人缺點的人,厭惡以下謗上的人,厭惡勇敢而無禮的人,厭惡固執而不通情理的人。?也有厭惡的人??」子貢?:「厭惡把剽竊當作聰明的人,厭惡把不謙遜當作勇敢的人,厭惡把告密當作直率的人。」

 

 

 

子張第十九の第21章

 子貢がいった。君子の過ちは日蝕や月蝕のようなものである。過ちがあると、すべての人がそのかげりを見るし、過ちを改めると、すべての人がその光を仰ぐ

【屁理屈】

 上位に位置する人は何をしても衆目の対象になる。此の衆目が曲者で、正当な評価を為す者ばかりとは限らない。

 陥れようとする者も沢山居る。こういう者は大義に名を借りた策士である。

 

 子貢曰。

 

君子之過也。

 

如日月之食焉。

 

過也人皆見之。

 

更也人皆仰之。

 

子張: 子貢?:「君子的缺點,象日蝕月蝕。一有缺點,人人都能看見;一旦改正,人人都會敬仰。」