現代論語 巻尾


 

 

 

第七章 巻尾

七の1 漢民族と論語

 

 論語は孔子が現実の社会を憂い、時宜に応じて示唆した示唆集で、論語を繙くほどに、しつこい程に、此処まで謂わないと駄目なのか・・・・・と思わせる程の記述である。

 孔子をして何故に此処まで言わしめたのか!と謂えば、彼の目から見て当時の社会は際限のない欲望と争乱の渦中にあり、とても其の儘見過ごす事が出来る状態では無かったのだろう。

 その後2500年を経た今日、彼の発憤は功を奏したのかと謂えば、人の生き様は風土による處が多いので、思想の完成には到らない迄も、程ほどの安寧を維持していると謂える。

 生物が生きる根本法則は弱肉強食である。国家存立は常に弱肉強食で、現代でも弱肉強食を疎かにしたなら国家は存立しない。

 孔子の思想が完全に浸透したとしても、「仁徳」は厭くまで国内問題で、生物の本質を覆す迄には到らず、国際通念には難しい。

 この点に於いて、「自由主義」と「仁徳」とは基本的な違いが有り、自由主義は自由を標榜し、競争の自由もその範疇にある。

 それに対し“仁徳”は、外部からの抑制は無いが、個個人が自己抑制を為して社会秩序を逸脱しないのである。

 自由な競争は弱肉強食もその範疇で、国家の理念と民衆の理念が一致する思想である。

 

 

七の2 大和民族と論語

 

 論語は既に聖徳太子が活躍した頃から読まれ、現在でも図書館は元よりのこと、思想書として書店の片隅に鎮座している。

 沢山の読者が居る訳ではないが、何しろ日本で一番古くから書棚に並んでいる本なので、読んだことのある人の総数は日本で一番と謂っても間違いではなかろう。

 ただ論語は日本人にしてみれば外国古典書なので、其の儘では読めないので、此を古典漢語の専門家が忠実に翻訳し、其の翻訳本を読むのである。

 古典の専門家が訳した本は、専門的且つ忠実に翻訳されているが、机上論理の域を出ず実社会との接点に乏しく、専門知識の乏しい市井の読者には空理空論の儘で、解ったようで解らぬ!と言うのが現実の読後感である。

 日本では時の政権が「孝」「仁」「禮」「忠」などの文言を殊更に抽出し、治世の具として活用した経緯もあるが、大東亜戦争の敗戦に依って、戦勝国側の論理により其の価値を失った。

 敗戦後は治世の具としての地位を離れ、単なる古典著作となったが、其れが却って論語本来の姿を取り戻したも謂える。

 

 

七の3 “ひと”の心は

 

 “ひと”の心は十人十色で、誰でも同じに理解するとは限らず、“正”と評価する者もいれば“偽”と判断する者もいる。

孔子先生の示唆(論語)を読んで、著者は著者の判断基準で載せたまでのことで、読者諸君がどの様な判断を為さるかは、各々の思慮にお任せせざるを得ない。

 “ひと”の心は、当事者単独の場合でも、“ひと”それぞれの判断を為すが、相手が居る場合は、相手によっても亦各々それぞれの判断を為す。

 簡単に言えば、例え一つの物事でも、相手の顔を見て、或いは相手の声を聞いて、時宜に応じて判断を為すので、一つの物事に対して一つの判断と謂うことはない。簡単に言えば「立場によって考えは異なる」のだが、此は実体験に依らなければ解らない。

 喩えば大金を貸し付け焦げ付いた貸し主の心中と、大金を借りて焦げ付かせた借り主の心中は、その立場にならなければ、本当の心中はは解らない。双方当事者には各々、他人には到底計り知れない葛藤が有るのだが、机上の想像では、当該当事者の心中を図り知ることは出来ない。

 即ち、実体験が総てであり、実体験するのは簡単ではないので、著者の体験を示そう。、

 著者は幸いにも20歳から60歳の間に十指に余る職業を経験し、大儲けも大損も文無しも経験した。その職業に従事して関わり合う“人”は、同業の誼としてグループを為し、業種が変わると家属と親類縁者以外は、友人から話し相手まで殆どが入れ替わる。結果として、ものの考え方も話題も殆どが入れ替わるのである。

 然し友人や知り合いが多数居ても、損得勘定を伴う金銭を遣り取りする間柄でなければ、上辺だけの付き合いで心の奥底を知ることは出来ず、人生経験と謂えるのか甚だ疑問である。

 扨、孔子先生の来歴を見ると、貧困・裕福・労働者・下級官吏・上級官吏・独身・妻帯・子持ち・定住・放浪・単身・指導者・・・・・・等、幾つもの立場に身を置いたので、相手の立場も理解出来、実体験に基づいた思想家で有ると謂える。

 

 

七の4 此からの論語

 

 論語は孔子先生が混乱する社会を危惧して、民衆自らの純真な心を基盤に据えて、安寧な社会を構築しようと、自己の実体験に基づいて構築した思想である。

 論語の示唆は厭くまで実体験を基にして懇懇と説かれ、机上の空論など差し挟む余地を与えない実話集とも謂える。

 論語のページを開き、書かれていることを其の儘に読めば、とても易しい読み物であるが、この読み物を読みにくくしているのは、古来から続く権威的風習に依るものかと思われる。

 論語は実体験に基づいて書かれた書物成れば、実体験に基づいて読み解かなければ成らないのは当然である。其れにも拘わらず日本国内での論語解説書は机上での解釈版で有る。

 此では、一言一句も見逃さず、頗る形は整っているが、呼吸をしていないのである。

 切り傷が有っても、骨折があっても、呼吸をしていないよりは良いではないか。論語の普及を阻んでいたのは、完璧を追求する学者と読者の為せる業で有ろう。

 その点、二宮尊徳先生の書は実体験に基づいているので、実に骨身にしみて血肉となった。

 

 

七の5 屁理屈

七の5−1 物事の基準

 

 善とか悪とか云うが、この地球上には本来善悪を分ける基準は無い。自分に都合が良い、即ち“益”成れば“善”、自分に都合が悪い、即ち“損”成れば“悪”、と分けているに過ぎない。

 唯“自分”の範囲が、個人であるのか、家属であるのか、社会であるのか、国家なのか、民族なのか、集団なのか、宗教なのか、・・・・・・、その属する範囲によって、“益”に成るのか、“損”に成るのか?の判断は異なる。

 

七の5−2 自分とは

 

 私達は“自分”に付いて、分かっているようで強ち分かっては居ない。

 “自分”には、私感としての自分と、客観としての自分の、二つの要件がある。

 私感としての自分は何となく分かるのだが、客観としての自分は、分かっているようで分からない。

 社会組織の中での自分は、客観的には位置付けられるが、其れは生命体としての位置づけではない。

 生命体としての位置づけは、父母兄姉親類縁者の中にあり、家系図を広げて、自分の名前を指させば、途端に、自分の生命体としての位置づけが脳裏に充満する。

 

七の5−3 情報

 

 世の中の情勢は其れを目視や・・・・・した者以外には、感得出来ない。因って、当事者でない者は、テレビやラジオと新聞や週刊誌や・・・・・・などの加工された情報に頼らざるを得ない。

 現実の物事と、加工された情報の間には、加工に携わる“人物或いは組織”に依る“編輯作業”が必要である。

 加工に携わる人物或いは組織が為す編輯作業には、

1-客観的に伝達しようとする意図、

2-当たり障りのない意図、

3-携わる人物或いは組織の目的意識の下に伝達しようとする意図、など概ね三っの傾向がある。

 無論、これらは一見渾然とはしているが、各々編集者の意図は巧妙に埋め込まれているので、その事を見逃してはならない。

 如何なる情報であっても、当事者本人でなければ、真実の情報とは言い難く、より真実に近づこうとするには、情報源の選別が必要不可欠である。

 簡単な方法の一例として、〈朝日新聞〉〈読売新聞〉〈産経新聞〉の三紙を一年ほど購読し、三紙を読み比べてみると、それらの編輯趣旨が比較的簡単に判別できる。

 

七の5−4 組織

 

 組織と“ひと”との間には、組織が富まなければ“ひと”は富まない。組織が貧しければ、“ひと”も貧しい。

 然し多くの民衆はこの事を忘れ、組織の冨を損じても自己の冨を要求する。

 此は家庭と家族の関係でも、会社員と従業員の関係でも、国民と国家の関係でも、此が“ひと”の現実であるが、ただ厄介なのは、何処にも“邪なひと”や組織が存在することである。

 昨今、年寄りを騙す詐欺の組織が横行し、年配者に対し幾ら注意喚起を為しても、詐欺被害が減らずに増えてゆく現実がある。

 その原因の一つに、老齢の親が無誤謬に我が子の言うことを信用することにある。

 親は未だに子離れをしていないのである!

 

七の5−5 欲望

 

 “ひと”には欲望がある。

 欲望には、物質的な欲望と、精神的な欲望がある。

“豊になろう!”と謂う欲望。

“貧しくなろう”と謂う欲望。

“豊にしよう”と謂う欲望。

“貧しくしよう”と謂う欲望。 

 現実の社会では、これらを組み合わせて、

“相手も豊かにして、自分も豊になろう”

“相手を貧しくしても、自分は豊になろう”

 勿論僅かではあるが、

“自分を貧しくしても、相手を豊にしよう”と謂う欲望もある。

 

七の5−6 判断

 

 “ひと”の行動は一瞬、一瞬の判断で成り立っていて、“そのつもりではなかった!”と謂う弁明は有り得ない。

 善行をするのも悪行をするのも、判断無しには為し得ない。

 殺めるつもりは無かったのに、殺めてしまった!

 とは、損得勘定で言い逃れをしているに過ぎない。

 損得勘定で口が利ける人は、この世の中に幾らでもいる!

 損得勘定で口が利けない人には、損得勘定で口が利ける人の“心の中”は、到底理解できないであろう。

 子供の頃から今までに、損得勘定で口を利いた経験の無い人は恐らく居ないだろうが、此の線引値が、肝心である。

 

七の5−7 嘘吐き

 

 この世には、元々嘘と本当の区別がない“ひと”が居る。

 区別が付けられないのではなくて、元々区別がないのだ!

 こういう人は何処で判断をしているかと謂えば、もともと嘘と誠の観念がないのだが、損と得の観念はある。依って損得を判断の基準にしているのである。

 こういう“ひと”は、概ね20人に1人はいるので、5%は居ると謂う勘定だ!

 善悪の判断と損得の判断は、結果が似ている場合が多いので、“欲深”と評価されるに留まり、本質的な嘘吐きを見過ごされて仕舞う懸念がある。

 

 その次に、意図的に善悪を損得で代替している人が居る。

 即ち他人の視線とか、罰金とか、刑罰とか・・・・が損で有る。

 犬の散歩中にウンチをさせ片付けない。

 たばこの吸い殻を棄てる

 駐車違反をする

 スピード違反をする

 泥棒、殺人、詐欺、などの犯罪を犯す

 探したら際限がない・・・・

 

 其れとは対照的に、絶対に嘘を為さない“ひと”が居る。その人は、嘘を知らない訳ではないが、絶対に嘘は吐かないのだ!

 こういう“ひと”は世間から、バカ正直と言われ、不利な立場に為らざるを得ない!

 こういう“ひと”は、概ね20人に1人はいるので、5%は居ると謂う勘定だ!損得勘定から謂うと、正直な行為は“損”なのは分かっているが、其れでも嘘は吐けないのだ!

 

七の5−8 常識

 

 常識とは、善悪も損得も含めて、その範囲内だけで通用する判断基準で、その範囲は時と場合により異なるので、狭い日本の中でさえも、何処でも誰にでも当て嵌まる訳ではない。

 夫婦でも物事の判断基準は異なります。

 親子でも物事の判断基準は異なります。

 隣の人と自分とでも、常識が同じとは限りません。 ましてや世界は埒外です。

 

七の5−9 種の継承

 

 地球上での常識は、個体の保持と種の継承である。

 “個体の保持”を達成するには捕食が必要な手段である。

 “種の継承”を達成するには、異性との合体が必要な手段で、論語の中にも、色事よりも“仁徳”を好む人に出会ったことがない!と書かれて居る。

 “ひと”は生物ですから、個体保持のために食欲があり、種を絶やさないために性欲がある。

 孔子先生はセックスは駄目などと、無粋なことは一言も言っていない。食べちゃダメ、セックスはダメ、此では、人類が滅亡する。

 

七の5−10 生きている

 人が生きているとはどういう事か!

 空気を吸い、水を飲み、排泄を為し・・・・・・・・・、

此が生きていると謂うことなのか?

 自分が為した以上の業績は無い。

 自分が為した以上の不業績もない。

 今茲にある姿は、良しに付け悪しきにつけ、巧いにしろ拙いにしろ、その総ては、自分の為した結果である。

 それ以上でもなければ、それ以下でもない。

 人間の寿命には際限がある。

 人生最大の無駄は時間を無駄に使うことである。

 時間は減る一方で補充することは出来ない。

 

 半年前には、先方宅で歓談して、一ヶ月前には電話で愚痴話を聞かされたのに、突然奥さんから、“うちのお父さん・・・死んだの!”と・・・・

 確かに彼は存在し、個人の事跡は事跡として残るが、何れは私の心からも消え去るのである。

 “生きている”とは、何だろう?

 私にその答えは出せない!

 

 

七の6 執筆に当たって

 

 漢籍お宅と謂っても、ずっと以前の事!と言い換えよう。

 漢詩詞に没頭していたときは、頭の中には詩語が一杯詰まっていたが、今では何も詰まっていない。

 書冊名を「現代論語」と決めたとき、肝心の脳裏には論語の一章も詰まっていなかった。早速朝日新聞社の中國古典選を引っ張り出したが、悔しいかな文字が小さくてサッパリ読めない。

 嘗て中國詩詞友に論語の解説書を貰ったことを思い出し、探し出した。私に呉れた相手も年輩なので文字が大きく、此なら読める!と、副本(漢語版)にした。

 この漢語版の副読本から、以前から気に入っていた章を拾い出し、その章に對して読みを付けた。幾つかの読みを付けていると、大昔に読んだ章の読みが思い出された。

 副読本から章を思い出し、概略を読み出し、過去の記憶から体裁の良い読みを付けた。

 此だけでは、殆ど丸写しなので、少し言い逃れのつもりで【屁理屈】の記述を付けた。

 

 

七の7 巻尾に寄せて

 

 私は若い頃からの漢籍お宅で、大儲けをしたときも文無しに成ったときも、漢籍の示唆が方向修正をしてくれた。

 田中角栄先生が日中国交正常化を為されて数年後、無謀にも渡中を試み、渡中は回を重ねた。当時漢籍読書の経験が有ったので、漢民族文化人は、私への評価を大いに買い被ってくれた。

 儒教を入り口にして漢詩詞同好との交友開拓へと道を進め、中國西南部から東北部まで、漢詩詞同好を頼って交流を為した。

 中國の文化活動は政権の傘下に有るので、中國指導部が胡錦涛国家主席から習近平国家主席へ替わったのを契機に、交流活動を取り止めた。

 【註】日本の詩歌は自己を愁い、漢民族の詩歌は社会と国家を憂うるので、当然その論旨は日本の詩歌とは異なり、成行として漢民族詩歌団体は政権の傘下に置かれるのは当然である)

 中國との交流を取り止めてから間もなくして、漢詩詞交流の経緯を整理し上梓した。次いで仏閣周遊記、次いで神社周遊記、次いで此の日本論語の執筆である。

 読者諸君は本冊の稚拙に呆れて、各々方の実体験に基づき著作為されば、何れの日か論語は平成の思想書と成るであろう。

2015年8月20日脱稿