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本郷青蛙
エッセイ集  

新しい作品は先頭に配置して有ります

 

 

036


人生   人生行路 之一

 遠くへゆくとき、私は事前に道路地図帳を広げ、道順を頭に叩き込む。

 道順を覚えるとしても、ただ道筋だけではない。大まかな位置と、その近辺とを併せて覚えるのだ。そうしておけば、喩え渋滞に捲き込まれても、道筋を換えても、立ち寄り場所を追加しても、差ほど躊躇する事は無い。

 若い頃妙義山へ行った。手元に地図が無いので、電車とバスを乗り継ぎ、徒歩を重ね、右往左往して、漸く目的地に辿り着いた。

 長男が高校生の頃、私はカーナビ付きの車を買った。息子に、「親父!カーナビにばかり頼ると、山奥に連れ込まれたり、海の中まて道が続く處が有るぞ!」、と言われた。

 私は妻と房州へ、カーナビ任せで、早春の花摘に行った。木更津市内を走っていたら、道は海岸に出て行き止まりだった。

 又ある時、土浦市新治町を通過してから、旧筑波鉄道沿線の、雨引観音へ向かった。

 カーナビの設定を、最短距離としたら、普段通っている道とは、異なる道を示した。

 だが訝りもせずに頼ったら、人気のない山道を通過し、観音堂裏手から門前に出た。間違いではないが、却って難渋をした。

 “人生行路”と言う言葉はあるが、目的の無い人生は、何時も家の回りを徘徊する野良犬に似ていて、何もせず、ただ飯を食い空気を吸って死を待つだけだ。

 目的があっても、他人任せでは、どんな人生行路に成るのか……。行き止まりに成ってしまうのか、苦難を強いられるのか……。

 「信ずる」と言えば、聞こえはよいが、その本質は、他人任せにして、自分の行為に責任を持たない事に通じる。

 如何に権威と雖も、必ずしも無誤謬とは限らない。然るに此を無誤謬と信じて頼ると、カーナビ委せの如く、勝手に操られ、意思を持たないロボットに、成りかねない。

 旅行には、地図もあれば案内書もある。人生行路にも、ガイドブックは幾つもある。

 私は子供の頃に父母から、人生には、経済知識が必要で、次いで社会への俯瞰的観察眼も必要だ。更に自分の行動を制御出来るだけの、忍耐と知性も必要だ! と言われた。

 生家を出る私に、父母は報徳仕法と、論語と、新古今和歌集と、徒然草の四巻を、餞の口上と共に与えた。

 この四巻は、棺桶に片足を突っ込んで居る今でも、手放すことの出来ない、人生のガイドブックで有り続ける。

 私は年齢を、数え年で数えている。だから私の人生は、連続した歳月ではない。一年毎に歳を重ねた七十九回目の七十九歳だ。

 お正月に神様から、年末までの生命しか戴いて居ないので、物事を来年に延期すことは出来ない。運良く来年も生命を戴けたなら、無駄にせず有効に使おう。斯く言う私は、月並みな目標は持っている積もりだ!

 

 

035


 人生行路之二 本当の意味での人生

 私の母はリウマチを患っていて、長年布団の上で過ごしていた。

 その母が私に謂った。

 「毎日毎日布団の上で、何事もなく過ぎ去って居る様に見えるが、どんな生方をしていようと、この総てが人生だ……」。

 今では母の言葉も、遠い過去の記憶となったが、その私も既に古稀を過ぎた。人生七十古来希なり!と謂うが、昨今の七十歳は、希ではないが、無病息災も多くはない。

 古稀以前の私が、自己の人生を語ると、当然に足腰の立つ自分を基準にして、その後の事は、想像で茶を濁していた。

 嘗て父は私に、「お前は働いているのではなく、動いているのだ!」と謂った。

 当時の私は、父が言う示唆の本質を理解出来ずに、成果を上げていない事への揶揄と理解していた。

 若い頃、ただ汲汲として、両親の示唆を聞き逃し、多忙を言い訳にしているが、実を謂えば、気に留める丈の知識に乏しく、更に時刻が、心を置き去りにしていたのだ。

 子供の頃に、人生には知恵が必要で、其れを養うために、短歌を学ぶようにと、父母に諭されたが、示唆を軽視して漢籍に没頭し、短歌を疎かにしていたので知恵不足で、人の心を読み取れず、単に人偏が無い丈だと、意にも介さなかった。

 人生論云々を、躊躇いなく使っていたが、この頃は時間に余裕が出来たので、時刻と心とが平衡する様になった。

 若い頃は、想像と戯れの域を出ず、ピンピンコロリが良いなあ!と、勝手なことを謂っていたが、実を謂うと、これから先のことは未経験で、私には何も解らないのだ!

 では先ず、今までのことを振り返ってみよう。艱難辛苦、喜怒哀楽、業績……、思い返せば際限がない程多い。

 此を要点整理すれば、個体の保持と種の継承と喜怒哀楽の三點に尽きる。

 この三點を人生の業績とすれば、狗も猫も豚も猿も……も、それぞれに人と同様な業績を、持ち合わせているのだ!

 ただ、狗と猫と豚と猿と……とは、肉体の衰えに因って、個体の保持と種の継承と喜怒哀楽の三點は終了し、即ち茲に、彼等の一生は終了するのだ。

 だが人類は、肉体が衰えても、崩壊しない限り、人生は継続する。即ちこの事こそが、他の動物と人とが根本的に異なる事柄で、即ち人生には、古稀を過ぎてから、骨壺に収まる時までの生き様が殊に重要だ!。

 ある人が「魂は他人様の記憶に宿る」と謂うから、人の記憶に留まり続ける努力も、人生の一環だろう。

 人の心に留まるには、人の為に働かねば成らぬ、人の心を知らねばならぬ。人の心を知るには学ばねばならぬ。

 

 

034


 人生行路之三 身の回りの動物と人

 私の身の回りには、野生動物や愛玩動物や経済動物、言い換えれば蜥蜴や狗猫や牛馬など……、数え上げたら際限がない。

 人類に人生と謂う概念が有るのだから、鴉にも、鴉生謂う概念はある筈だ。

 私は人類だから、鴉の生き様、即ち鴉の立場からの鴉生は解らないが、立場を置き換えての想像なら鴉生は謂える。

 鴉は一夫一婦制で、風通の良い高い樹の上に巣を設け、子供を育てる準備をする。

 雄雌が番いとなった経緯は知らないが、三十日ほど親鳥に抱卵されて、日を措いて四、五羽の兄弟と共に、自分から殻を破って、児鴉が生まれた!

 未だ翼は小さく、足腰は弱く、自活出来なかったが、両親が餌を運んでくれ、児鴉を食べに来る鷹や青大将や悪戯する人間などの外敵から身を守ってくれて、漸く二、三ヶ月で羽足も整ったので、巣立ちをした。

 鴉は人間と同じく、夫婦で子供を育て、而も群を作り、相互補助を為し、必要とする言葉は持ち合わせ、仲間同士で会話もし、傾斜地で滑り台遊びや、雪の上を滑って遊んだりする娯楽も身に付けている。

 人間は、仲間殺しや間接的的に共食いをするが、鴉も喧嘩をする。

 此処までは鴉も人間も同じだが、一点だけ異なる事がある。鴉は自活できなくなれば、その時を以て生命は終わりになる、人間は自活出来なくなっても、生命は終わらない。

 人間の習性を巧に利用し、個体の保持と種の継承を為す、愛玩動物と謂われる狗や猫、小鳥や爬虫類……などがいる。

 狗は紐で繋がれ、自由を奪われる弊害は有るが、個体の形状と仕草とを、人間の趣向に迎合させ、人間が必要とする使役の一端を担う等して、人間に衣食住を賄わせ、個体の保持と種の継承を為してる。

 猫は狗よりも巧に、人間の特質を活用し、全く使役を為さず繋がれず、個体の形状と仕草とを人間の趣向に迎合させ、衣食住を賄わせ、個体の保持と種の継承を成している。

 

 経済活動の一環として人間が飼養する、牛馬豚鶏魚……などの経済動物が居る。

 経済動物は事故と病死以外、生殺与奪は総て、人間の判断に因らざるを得ない。

 この様な状況下では、自己意思による個体の保持はままならないが、種の継承は人間によって確実に為されている。

 さてもう一度人間に立ち戻ってみよう。人間は自ら構築したシステムに因って、目に見えない紐に繋がれ、年老いるまで労役を課せられ、自縄自縛に陥っているとも謂える。

 更に貧富の差を創出し、間接的に共食いして殺し合いもする。鴉と何処が違うのか?

 

 

033


 眞と偽と

 私は時々妻に「嘘吐き!」と言われる。行き当たり張ったりに、その場凌ぎの嘘は吐くが、泥棒と人殺しと浮気はしていないのだから、嘘吐き呼ばわりされるほどのことは有るまい……、と思う。

 嘘にも大小が有って、小は幼稚園性が吐く嘘、大は国家が吐く嘘がある。

 妻が言う“嘘吐き”の基準は何処だ……。

 テレビやラジオで、“真偽”は屡々耳にする言葉だが、果たして何を以て眞と為し、何を以て偽と為すのか?

 人間社会では、人為的な判断基準として、真偽と善悪が有り、人為的判断基準の他に、科学には、物事の基準となる定理が有る。

り、定理に合致するか否かで、可否が判断されるのだが、其の基準となるべき定理が、学術研究の成果に依って変更される事があり、万古不変と言う訳ではない。

 真偽と同じように“善悪”と言う概念もあるが、何を善と為し、何を悪と為すのか?

 性善説云々を口にする御仁は見掛けるが、善悪の基準は臨機応変て、時と場合に依ることを、凡夫にも容易く想像できる。

 個人の胸中で善悪を判断しても、その基準が夫婦で通用するとは限らない。

 夫婦で通用する善悪の判断も、親子で通用するとは限らない。

 親子で通用する善悪判断も、隣家で通用するとは限らない。

 隣家で通用する善悪の判断も、地域で通用するとは限らない。

 地域で通用する善悪の判断も、国内全域で通用するとは限らない。

 国内で通用する善悪の判断も、国際的に通用するとは限らない。

 眞とは何か? 偽とは何か? 

 日本の常識は世界の非常識と謂われる由縁は其処にある。

 

余りにも課題が難しすぎて書けなくなりました

 

 

032


失敗之一

 凡夫の失敗談

 人生の七十八年目は昨年末に完結した。さて、此の歳月を振り返ると、成功も失敗も雑多で、とても書ききれないが、未だに無意味な経験は一つもないのだ。

 幼児の頃は扨措き、概ね七十年余り、学んだ積もりの蜻蛉も、辺りが茫茫として、その位置も不確かだった。

 微かに見え隠れする蜻蛉を頼りに、荷物を背負って紆余曲折した。こんな状況だから、失敗を拾い出したら際限無いが、成功は更に沢山ある。何れにせよ、何時も愉しかった。

 “他人”の失敗は蜜の味と言うので、面白そうな失敗を幾つか拾い出した。

 

 中学生の頃か……。土居君と言う鉄工場の倅が居た。

 「魚捕りをするのでカーバイトを呉れ」と頼んだら、空き瓶に入れた塊を手渡し乍ら、使用法を説明してくれた。

 「此を?網に入れて、池に投げ入れれば、魚は気絶して簡単に捕れるぞ」。

 家の裏手に、親父が育てている鯉の養殖池があったので、私は早速その池で試した。

 處が、?網を持ったまま足を滑らせて、ズルズル、ドカーン! 死ぬかと思った。

 翌る日親父は、誰かが養殖池で悪戯をしたらしく、丹精して育てた鯉が沢山死んだ!

 当然私は知らんぷり……。

 

 常磐自動車道でも東北道でも、車の出入り口は左側にある。處が首都高は、その場の都合で、右側の場合も左側も有る。

 私も鈴木君も首都高には不慣れだった。右だ!左だ!と迷っている中に、中央分離帯へドスーン。フロントガラスを打ち破って土嚢に叩き付けられた。

 車はメチャメチャだが、二人とも無傷。坊主にされた頭に、絆創膏を貼られて帰宅。

 

 三十歳の頃、遊び用に、道幅さえあれば何処へでも行ける四駆を乗り回し、目的もなく地図を頼りに、独りで青森へ行った。

 広い道は葛籠折れで、矢鱈に遠い。山道を突っ切れば道程は短縮出来る! 四駆乗りなら、当然山道を突っ切る。

 前日迄の雨で地盤が緩み、道路が灌木ごと滑り落ちた。ズルズルザザザドスン!

 気が付いたら、広い道路の上に出来た小山の上にいた。道程は短縮出来たが、其の分怖い思いもした。

 

 若い頃、論語お宅だった。

 結婚したばかりの頃、先ずは論語の講義をして、同衾は後回しにした。

 だから半世紀経った今でも、口喧嘩をすると何時も負ける。何しろ相手は孔子先生だから、論破されて当然だ!

 永井荷風を講じれば良かったなあ……。

 

 

031


 詩人と詩家

 

 扨巷では、詩歌を綴る人を詩人とか、詩家と言うが、世間の云々は扨措き、私は詩人と詩家とを明確に分けている。

 抑も日本国内で、詩人と詩家を分けて扱う人を聞かないが、私は文化大革命の災禍を逃れた、数少ない中國の国文学者数名から、詩人と詩家は異なるのだと、指導された。

 其の教授が言うには、詩人と詩家との相違は、基本的に、対象に対する物事の捉え方が異なるのだと。

 先ず詩人は、耳目に感じる事象に対して、其の光景を根底に据え、眼を見開いて広範に観察する方法と、眼を狭めて細部を観察する方法の二通りが挙げられる。

 だがこの観察は、現次元、或いは現視点とは、それ程に離れては居らず、現代日本漢詩や日本詩歌は此の範疇に入る。

 次いで詩家は、耳目に感じる事象への対応は、概ね詩人と同じだが、観察は、現次元或いは現視点とは、必ずしも同じではなく、却って、離れているかも知れない。

 一例を述を挙げれば、先頃、過労死した娘さんが居た。世間では、あれこれと語られるが、この様な捉え方もある。

 この娘さんは、人として生きる目的を、どの様に定めていたのか? 娘さんも、仕事だけではロボットと同じなので、其相応の生きる目標、即ち人生観が有った思われる。

 然し飯を食い空気を吸って、生命を維持しなければ、目標には到達出来ないのだが、仕事はあくまで、目標到達の手段で、目標では無い筈だ。處が娘さんは、手段の為に目標を棄てたのだ。何故に、目標と手段を取り違えたのだろうか……。

 詩家はこういう事案に対して、私見を述べるが、其れも世間並みの深さでは駄目で、物事をより深い處から探らねばならない。

 この程、米国大統領にトランプ氏が就任した。世界中が議論百出中だが、此の本質は、世界趨勢が根底に有るのだ。

 世界の趨勢とは何か?、如何に公平な社会を希望しても、不公平はなくならない。其れは動植物や菌迄も、生命体の総て、人類なら個人であれ民族であれ、国家であれ、総てに覆い被さる共通する道理である。

 細菌は人類に攻撃を仕掛け、人類にも不公平が、常に充満しているのだ。

 EU離脱やトランプ氏の就任は、それら襞の一つに過ぎないとも言える。

 詩家の間では、「社会の不幸は詩家の幸」と言う言葉がある。殊に此処二十年余り、世界情勢が渾沌として、波瀾含みで、題材は溢れている。

 詩家は、世界情勢と、国内情勢を捉え、更に歴史認識とを併せて起点と為し、眼前の物事を詩法を使って綴るのだ。こうした作品が詩家の作品で、此を綴れる人が詩家で、詩法は概ね興が多いようである。

 

 

030


 年末に思うこと

 枕元の目覚まし時計が、五時四五分を告げた。前年もその前年も……、ずっと前から五時四五分に目覚ましは鳴る。

 ガラ携が壊れたとき、目覚まし時計として使えるので、捨てずに使っているのだ。

 電話としては使えないが、充電器に載せておけば、時刻の設定機能は充実しているし、時刻の正確さは光一で有る。

 私の骨肉も長年の酷使で、大分草臥れた!

だが全く使い物にならなく成ったとは言いたくない。壊れたガラ携だって、使い道によっては十二分の使い道があるのだから……。

 年末には子供と嫁と孫が掃除を手伝いに来て、爺と婆に元気な顔を見せ乍ら、近況を告げてくれる。

 私が、もうじき七十九歳だと言ったら、未だ誕生日前だから七十八歳でしよう、惚けないで! と妻に諭された。

 さて私は若い頃に父母から諭されて、敗戦後に普及した満年齢は使わず、敢えて自分の歳だけは“数え年”で、数えている。

 父母曰く

 “ひと”は狗や猫の様に、飯を食い空気を吸い、子を産み子を育てて一日を過ごし、一生を過ごす動物とは違うのだぞ!

 犬や猫は、満年齢で何年生きたと言うが、満年齢は、生物一般、況や無生物を含めた経過歳月の数え方だ……。

 私は斯くの如く理解した。

 この橋は造られてから、既に十五年半も経つので、ペンキが剥げ落ちたとか、この猫は生まれたばかりの子猫を貰ってきて、既に九ヶ月ほど飼っているのです、等々。

 何れも経過年数で、即ち「満」で数えて、数量としての言い方である。

 一口に“人”と言っても、骨肉から成る単なる物体と、文明社会の一員である生命体として見る場合の二通りがある。

 ただ漫然と日を過ごす丈なら、犬猫と然したる違いが無いので、満年齢も良かろう。

 ただ私は、文明社会の一員を為す一個の生命体であると自認しているので、経過年数で数えられることを、潔しとはしない。

 “ひと”が犬猫と違うのは、自分の生命を自覚し、其の生命を自分の意思で使うからこそ、“人”と言えるのではないのか?

 “自分の生命を自覚して、自分で使う”とはどういう事か? 

 とても難しい命題だ!

 私は神様から、毎年のお正月に、年末までの命を戴く。文明としての自認である。

 私はあれこれと解を探したが、未だ麓に近付いた形跡がない。解らないからこそ、答えを探し続けているのだ。

 解を求める行為そのものが、「解」なのでは有るまいか?

 一年は短い、私の寿命はあと僅か!

 だが未だに命題の解は得られていない。

 

 

029


 歪む歪んだ口元

 実を言うと私の歯は、部分入れ歯だ! 右上奥の二本が故あって亡くなった。

 歯の抜けた謂われを書いても馬鹿馬鹿しいが、つい書きたくなった。

 若い頃、遠隔地の土木工事現場で、現場監督をしていた時があり、とても忙しい、気が抜けない、……。その当時、疲れると屡々奥歯が痛くなった。

 疲れが取れると、歯痛も自然に治った!

 貧乏暇無しにかまけて、根本的な治療はせずに、その場凌ぎでその場を凌いでいた。

 話しを先程の作業現場に戻すと、

 朝から歯痛で堪らない! 指図が出来る人が一人だから、休む訳にもゆかない。我慢に我慢を重ねて、昼まで持ちこたえた。

 遂に堪えきれなくなり、暫く車で走って、歯科医院に駆け込んだ。ほっぺたが腫れて、歯科医は一通りの検査をしたのだろうと、思うが……。「此はとても酷いですね。応急処置と言っても、抜かなければダメです」。

 痛みから逃れたい、ただ其の一心で、私は抜歯を承諾した。

 草臥れている歯だから、簡単に抜けると思っていたら、とても抜けない!

 若い医師は、ぐいぐいグリグリ、其れでも抜けない。爺さん医師が、隣の患者にマッタを掛けて、二人掛かりでやっと抜けた!

 余りの痛さに、今までの歯痛は何処へ行ったのか。頭がボーと成った。

 とても車で帰れそうもないので、少し休憩してから、歯医者さんに、「女房に説明しないと駄目なので、抜いた歯を返して下さい」と言った。

 抜いた傷跡が、数日は痛かったが、漸く仕事も終わり、暫くぶりに帰宅した。

 翌る日、掛かり付けの歯科医院に行って、他郷で歯痛に悩まされた話しをした。

 受け取ってきた抜いた歯を見せた。歯科医は言った。「何でもない健康な歯を抜きましたね。歯痛の歯は、隣の歯ですよ」。

 健康な歯を抜いたから痛かったのだ!

 結局、今まで治療を怠った結果、奥歯二本を治療した。そして、余計に抜いて仕舞ったお陰で、治療した歯と、その次の次の歯にブリッチを掛けて、漸く治った。

 あれから何年経ったかなあ……。遂に一番奥の歯も酷使に耐えきれず駄目になった。

 入れ歯だけはご免だと思っていたが、遂に部分入れ歯のお世話になった。

 嫌な記憶が蘇る。

 兄と一緒に食事をすると、時折兄は、湯飲み茶碗に部分入れ歯を入れて濯いだ。

 若い頃、傲慢だった兄と、入れ歯を湯飲みで濯ぐ姿を重ね合わせ、老醜が哀れだ。

 其れが我が身に訪れるとは……。

 歯磨きに、入れ歯を外して鏡を覗くと、顔が少し歪んでいる。

 心も歪んで、屁理屈が多くなった。

 

 

028


 ライフワーク

 実を言うと、私は課題「マイブーム」の語意を知らなかった。ただライスワーク、ライクワーク、ライフワーク、ライトワークの、何れかであろう事は大凡の想像は付いた。

 其れならこの際、ライ○ワークの経験談で紙面を埋めるのも一興かと筆を執った。

 社会に出て先ず視たのは、皆さんが喰う為に、汲汲と働いている姿であった。

 此が即ち、「ライスワーク」だろう。

 私はこの事に没頭した。銭を追えば銭に追い掛けられ、此が一生続くなんて……、果たしてこの生き方で良いのか?

 三度の飯が食えれば良いので、好きな事に遣り甲斐を探そうと、方針転換を意識した。

 子供の頃から好きな、中國哲学を「ライクワーク」にしようと、生き方を決めた。

 その頃は、日中国交回復直後で、渡中が極めて少なかったが、私は仏教団体が渡中する事を聞きつけ、団体に便乗して渡中した。

 僧侶の話しは、屡々哲学が俎上に上る。私はこの機会にと、しゃしゃり出て、薀蓄を披露した。渡中の度に薀蓄を披露するので、中國の学者から評価されるように成った。

 先ず国文学者を紹介され、其れから詩家を紹介され、何時のまにか政府の要人と、作品の応酬をする間柄に成ってしまった。

 渡中僧侶の団体に潜り込んでから、既に四十年も経って仕舞い、政権も、江澤民氏、胡錦涛氏、習近平氏と、三代も換わった。

 中國の詩家は、古来から思想家で、私の知る限り、詩歌を橋梁に中国政府要人との関わりを為す者は、数人だけだった。

 因って私は、習近平体制成立を契機に、中國詩家との関わりを一切絶ち、国内でも、詩詞壇主宰の職を同好に委ねて辞した。

 さて私は、地元の世話にはなるが、役には立って居なかったので、自分自身にとても恥ずかしい思いがあって、民生児童委員を拝命した。即ち「ライフワーク」だ。

 事前に情報が無ければ、虐めや虐待、孤独や自死は、阻止出来ないのだが、私の任期中に個人情報保護法が施行されたので、社会の片隅で苦しむ人を助ける事は、到底出来なくなった。因って、三期九年で辞任した。

 学童の交通事故はとても多い。私は児童の登下校の交通見守りを十三年間続け、体力の衰えを自覚して辞任した。

 次いで「ライトワーク」だ。三歳年上の友人が、このほど養蜂業を始めたと電話で知らせてきた。蜂蜜が有るから遊びに来いよ! と言う。私は羨ましく思った。

 私にだって出来る! と言う気概丈はあるが、この頃高齢者の交通事故が、頗る多い。因って、自ずと為すことに制限はある。

 仕方なく自己満足の域を出ないが、エッセイを書く努力をしている。

 ただ残り少ない時間を、自分の為だけに費やすのが心苦しい。

 

027


エッセイ 暖かい飲み物

 甘酒

 電気工事の帰り道、何時ものコンビニで、一杯の甘酒を飲むのが楽しみだった。

 暖かくて甘い甘酒は、仕事帰りの疲れた躰を癒してくれ、家路を近くにしてくれた。

 妻は、学校から疲れて帰ってきた子供と、仕事で疲れた私に、酒粕から作った出来合いの甘酒を、温めて飲ませてくれた。

 小旅行やハイキングの時には、茶店に着くと、何時も先ず甘酒を注文する。少しの疲れと緑の風で、殊更に美味く感じるが、飲んでいるのは、何時もの甘酒と大差ない。

 敗戦直後の、甘い美味いものと言えば、焼き芋と甘酒位しか無かった。

 都会の人は、空腹に耐えたと聞くが、私は農家の子なので、空腹の記憶はなく、焼き芋や甘酒は、手軽に口に入った。

 村内に糀屋が在ったが、お金が無ければ買えないが、其処は都合良く出来ていて、物々交換と言う購買方法があった。

 物々交換と言うと、大昔の話しの様だが、現代でも経済制裁を受けると、貨幣の流通が断たれるのて、輸出入の有効な手段の一つとして、此をバーター取引という。

 敗戦後の日本も外貨不足の故に、バーター取引を為したそうだ。国家も物々交換を為したのだから、民間なら当然な話だ。

 糀が欲しいなら、糀屋へ米を持って行き、パンが欲しければ、パン屋へ小麦を持もって行った。

 饂飩はお袋が作ったが、糀屋で米か麦を糀に換えれば、当然味噌は自家製である。

 味噌を笊に入れて置くと、汁が溜る。今考えるとインチキ臭いが、父は味噌の汁を集めて、其処へ摺った炭を入れ、黒っぽい色を付け、自家用の醤油にしていた様だ。

 砂糖が無いので甘味料は自家製である。梨作り農家だったので、屑梨は沢山ある。皮を剥き傷を除き、梨の実を臼で搗くのだ。

 その汁を煮詰めれば、ドロドロとした甘い塊が出来る。砂糖の代用品だが、今なら果糖と言って立派な商品だ。

 砂糖黍も作ったが、父が言うには関東では余り甘くならないそうだ。

 余談になるが、日中国交回復の数年後に訪中したら、道の至る所に砂糖黍の噛滓が散らばっている。風が吹くと噛滓が舞い上がる。

 当時は、甘菓子が乏しいので、甘菓子の代わりに、砂糖黍の茎が道端で売られていて、大人も子供も、五十センチほどの砂糖黍の茎を噛んでいた。日本でも中国でも、甘い物に餓えていたのだ!

 話しを戻すと、温かな飲み物と言えば、珈琲、紅茶、スープや甘酒だ!

 若い頃の妻は、何処で教わってきたのか、自家製の甘酒造りをした。

 お櫃一杯の糀と米を、電気炬燵の中に仕込んだ。出来たのはドブロクだった。

 其れから妻は、甘酒を造らなく成った。だから妻の甘酒は酒粕だ!

 

 

026


エッセイ リンゴ

 紅玉

 福島市郊外でリンゴ農家を営む、阿部君と謂う友人が居る。彼は私の直接の友人ではない。友人の友人だったが、何時のまにか、友人に成って仕舞った。

 私の友人、土居君は中高の同級生で、彼は将来を見据え、大学では原子力を学び、次いで建設を学んだと! 偶々私に遭った彼は、「今は福島原子力発電所の建設工事に携わっているのだ。後では絶対に見られない現場だから、君に見せてあげよう!」と謂った。

 私は透かさず「女房と子供にも見せたい」と謂ったら、「ダメ」と断られた。

 土居君の用意した車に乗り、私が運転して福島県へ向かった。今は高速道で僅かだが、当時は物凄く遠かった。先ずは彼の友人「阿部君」の家に立ち寄った。阿部君は旅館の息子なのに、何故かリンゴ農家をしていた。

 其れから、父親が経営する「旅館玉子湯」に投宿した。宿の様子を紹介すると、スカイラインへ向かって道路の左側に古びた旅館があり、建物を抜けると、直ぐに川原へ出る。

 川原には、幾つもの小さな小屋が立っていて、小屋の中は温泉である。簡単に言えば、川原に湯船を掘って、屋根を被せたのだ!

 私は友人の友人と言うことで、其の儘旅館玉子湯に投宿した。

 阿部君と土居君は友人同士で、大いにはしゃぎ、大いに飲んだ。彼等は大学の友人同士で、話題が頗る合致する。其れに引き替え私は、対話する丈の知識に欠けていたのだ。

 だから私は、多分に引け目を感じ、彼等の有様を羨ましく見ている他はなかった。

 阿部君が私に言った。「妹だけど、高学歴が却って邪魔して、地元では縁がないんだ! 誰か良い人は居ないかい。」と謂って、彼の妹を紹介した。知性溢れる女性だった!

 私は貧乏性だ! 夜明け間際にもう一度、川原の小屋掛け露天風呂に入った。

 今度は阿部君が運転して、福島県双葉郡大熊町の原子力発電所建設現場へ向かった。

 今のように道路が整備されて居なかったので、何処をどう通ったのか解らない。

 いきなり建設現場に出た! 土居君は、何回も身分証明書を出し、同行は何度も何度も名前を書いた。訳も分からぬ中に、原子炉の建設現場に入って、訳の分からぬ物を見た!

 土居君は現場に残るというので、私は現場から、東京へ行く人の車に便乗した。

 その後、阿部君から自家産の紅玉リンゴを贈ってきた。亦又その後、妻子で旅館玉子湯に投宿した。旅館は新築され、川原の湯は小綺麗な小屋で、阿部君は社長だった。

 土居君は大手町で歯科医院の院長先生。

 原子力発電所はパンクした。

 この頃は紅玉リンゴは珍しく成った。でも紅玉リンゴを見ると、当時を思い出す。

 世の中には色々あるが、損得抜きで、取り返しの付かない事を、為してはダメだ!

 

 

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025


 私の心を築いた一言

 母は私が生家を出るときの餞に、読み古された「二宮翁夜話」と「新古今和歌集」を持たせてくれた。

 母は言った。「惟から社会に出て、一家を為して生きなければならない。その時に必要なのは、家政の知識だ。

 先ず手始めに、二宮翁夜話を読み、次いで報徳仕法を学べば、一家の経済を調えることが出来る」と……。

 更に加えて、「心が貧しくては、人生を豊にすることは出来ない。己の心を養うには、新古今和歌集を読みなさい。」と言った。

 父は、論語と唐詩選を手渡してくれた。

 父母は更に重ねて、「これらの本は、学問として学ぶのではなく、実用書として日々に活用しなければならない。」と付け加えた。

 何も判らぬ若僧が生家を出て、当然何も判らぬ……。人間関係に迷った時、二宮翁夜話を読んだら、其れの解決法があった。

 銭金に迷った時、報徳仕法を読んで、其の解決法を探ったら、具に教えてくれた!

 己と、他人の心が識りたくて、新古今和歌集を読んだが、余りにも意図が難解で、自分の生き様に活用することは、出来なかった。 其れに引き替え唐詩選は、実践活用する事が出来て、論語と併せて座右の書となった。

 父は論語を手渡し、「先ず論語を読み、次いで中庸と大学を読みなさい」と言った。然し私は、論語は熟読したが、他は素読した丈で、通念は把握したが、ただ其れだけだ。

 曲なりにも社会人と成って、広範な社会を俯瞰するとき、其れの本質を探るのに、儒教の知識は大いに役立った。

 十六歳の山出し男も、月日が経てば、背も伸び色気も付く。二十歳の頃、商家の娘と知り合ったが、唐詩選は双方の心を繋ぐのに、大いに役立った。

 岩手花巻の事業家が、この若僧に出資してくれたのも、論語と報徳仕法の知識が、その根幹にあったからだ。

 二十三歳で見合い結婚し、健全な家庭を築くには、相応の知識が必要と、同衾よりも学習を優先した。妻に論語と報徳仕法を講じたら、旱天の慈雨の如くに、知識を吸収した。

 私の収入は一定していない。だから一年分を渡したり、渡さなかったり……。だが私は妻に、収支を問うた事はない。

 わが子供達にも、論語と唐詩選と報徳仕法と新古今和歌集と徒然草を贈った。

 果たして読んでくれたのかな?

 昨年「現代論語」を上梓した。嫁や孫にも贈ったが、迷惑だったかな……。

 長年の夫婦でも、諍いはある。何時も私が負ける。私の屁理屈はたちどころに論破されるのだ。何しろ相手は、孔子様だから!

 父母は餞に本を差し出し、「実用書として活用しろ!」この言葉こそが、我が人生の大筋を決めたと言っても、過言ではあるまい。

 

 

024  



 こころの旅 鴨川からの家路

 鴨川で一泊し、仁右衛門島を見てから、大原で昼食をして帰宅の予定だ。

 仁右衛門島は個人所有だそうで、島は減りも、壊れもしないし、程ほどの収入なので、子や孫がバカにならないし、こんなに良い財産はないと思う。

 房州は度々来ているが、何時も内房から、外房勝浦まで回り込み、清澄山、大多喜で、十万石最中を買って帰宅している。

 だが今回は、大原へ足を延ばそうと思う。大原は若い頃の記憶があるからだ。

 二十歳代の頃、道を挟んだ拙宅の前に、山崎さんが住んでいた。彼の話は大きかった! 私が食うや食わずの時、オペルの新車を乗り回していたのだ。その彼が、何時のまにか家屋敷を売り払って、引っ越してしまった。

 伝え聞くところに依ると、彼は釣好きで、良い釣り場があるので居を移したそうだ。

 ハガキ一枚届いていないから、彼が何処に住んでいるかは知らないし、私は未だに大原に立ち寄った事が無いのだ。

 車は鴨川を出て、鴨川シーワールドの前を通る。子供を連れてきた事、孫を連れてきた事を思い出す。

 今日は、爺さん婆さんだから、立ち寄るのは止めた。小湊と勝浦を通過すると、山は海まで迫って人家は少なくなる。

 何故大原に行くのか?と言えば、テレビで大原の観光を映していたからだ! 大きな伊勢エビと鮮魚の山盛り。喰ってみたいと思っても仕方あるまい。

 大原に到着して、辺りを探したが、火曜日で定休日が多く、鮮魚食堂が見当たらない。

 丁度腹も減ってきた頃、看板の大きな鮮魚食堂が漸く見つかった。

 程ほど愛想の店員に、大きなエビが載っている食事が欲しい! と言った。

 周囲のテーブルを見ると、エビはそれ程大きくないのだ。私達のテーブルにも、エビが運ばれてきた。予感が的中した。

 妻が「テレビで映すと大きく映るのよ!」と一言。

 魚の干物を買おうと干物屋を捜す。干物屋の看板を見掛け、車を進める。途中で案内板が消え失せ、どこだか判らぬ處へ迷い込む。同じ事を三度遣っても、何処の干物屋にも往けず。私の頭がバカに成ったと諦めた。

 山道から大多喜市街地へ出て、“十万石最中”屋を探す。知って居た訳ではないが、直ぐに捜せた。バカが恢復した! と、安堵。 最中を買い千葉へ向かう。

 千葉の手前までは、差ほど時間を要せずに往けた。姉ヶ崎辺りにも、干物屋が在ったのを記憶していて、妻のために、姉ヶ崎へ寄ったら、その辺りは既に住宅地に成っていて、跡形も無し。

 ここ数十年で、荒廃したところと、豹変した處と……。

 

 

023


 こころの旅 夫婦で房州鴨川へ

 歳毎に、夏の厳しさが身に堪え、今年は殊に厳しく、十月になり、漸く蒸し暑さも和らぎ、一日毎に怠い身体が生気を取り戻した。「明日は房州へ一泊で行こう。」計劃は直ぐに纏まり、直ぐに実行した。

 生計を離れた老夫婦は、毎日が休日だ! 房州は、殆ど日帰りだったが、この頃は疲れるので、一泊二日にした。

 着替えを四駆に放り込み、出発だ。東関道から京葉道を通り、君津インターで降りた。妻が“かずさアカデミアパーク”を“木更津アウトレット”と、間違えたので、研究機関の林立する地域へ行ってしまった。

 間違いに気付いて、久留里方面に行き先を変えた。木更津から内陸久留里へは、斯くも山の中かと、愕く程の山亦山、久留里付近で漸く人家がある。

 同乗の妻が、「千葉県は田舎だものね!」

と、茨城の友人が言った言葉を思い出し、半笑して頷く。

 久留里から、鴨川有料道路へ向かう。入り口付近に、君津市立香木原小学校があった筈で、四十歳の頃、ゴルフ場建設の経験がしたくて、監督を引き受けた場所である。

 監督を引き受ける前に、妻子を連れて現地踏査をした記憶が蘇った。

 その当時、道路脇の小川に一歩足を踏み入れると、川底は砂岩で、ヤスリの上を歩くが如く、子供が滑る心配はない。

 水深僅か三十センチで、水は透き通り、人類の残虐を知らない小魚や蟹やエビが集まって、子供の手足に纏わりつく。

 私は此の楽園を、地獄に変える片棒を担いだ一人となった。

 私は総監督の下で働く監督の一人で、土木工事の指図と、従業員の管理を担当した。

 私も電気技術者の端くれを自負していて、その仲間数人が、鴨川に宿を取り、互に誤った論題を出して、互に論破する遊びをした。

 向学心に燃えていた。意気盛んであった。

 あれから三十年、道路脇の廃屋、香木原小学校の残骸、横道に車を進めると、廃屋が一戸、二戸……。あの頃の住人は、都会へ移り住んだか、冥府へ赴いたか……。

 校庭から聞こえる子供達の聲。郷人の談笑などが、私の脳裏を過ぎった。論題を戦わした好敵手も、今は居ない。

 さて鴨川有料道路入り口手前に、“亀岩の洞窟”と銘打った、観光施設があった。植栽された櫻樹を見ると、二十年は経って居て、嘗て妻子を連れて、現地踏査をした小川の下流と似ているが、辺りの木々は伐採され、殆ど従前の面影は残していない。

 久し振りに夫婦で鴨川に投宿した。嘗て論題を戦わした“吉田屋旅館”は既に無い。

 六階からの日の出は、今日の元気を恵んでくれた。

 帰途は次回に譲ろう。

 

 

022


こころの旅     夫婦での旅

 私は自営だから、家に居ることが多い。だから、私も妻も一緒に旅行しよう、などとは思わなかった。かといって、全く一緒に出掛けなかったと言う訳でもない。

 だが一緒に行くと何かある……。

 ガムに一緒に行った。

 娘は日本旅行に勤めていたので詳しい。お父さんは、ガムには行かない方が良いよ! そう言われても、夫婦には、解らなかった。

 昼間は団体行動で、金魚の糞みたいに付いて歩く。夕刻からは自由行動だった。

 妻は、出掛けよう! と促す。

 處がホテルを出た途端に、夫婦で歩いていても、娼婦が付きまとう。脇に妻が居ても、お父さん遊ぼうよ! と声を掛ける。

 鼻の下が長いからだ! と叱かられる。

 じゃあ手を繋いで歩こう。手を繋いでいても、お父さん遊ぼう! と声を掛ける。

 周囲には、欧米人旅行者も居るのに、声を掛けるのは、日本人にだけだ。

 ポルトガルへ行った。

 例によって昼間は、金魚の糞状態。夕刻なのにもう娼婦が居る。ガムで懲りたから、外出には注意した。団体旅行の男達は表で、奥さんは店内にいた。

 例によって、其処へ娼婦の群が現れた。面倒だから、私はガラス戸の内側に逃げて、外の様子を窺う。外での遣り取りを見て居るのは、其れなりに面白い。

 何処かの親父、「お母さん! 女の娘が誘うから、遊びに行っても良いかい!」

 「バカだねえ、こっちへ来なさい!」

 カナダへ行った。

 誰が見ても判るほど、歳の離れた夫婦が居た。小綺麗だが癖がありそうなご婦人。

 一塊で観光巡りをするのだが、そのご婦人は、何時も私共夫婦の傍にいる。時たま私共の間に割り込むので、鬱陶しい。頭に来た。

 妻は先方の旦那に、「奥さんを繋いでおきなさい!」。

 「貴方の鼻の下が長いから!」 と、叱られた。とんだ、とばっちりだ。

 フランスへ行った。

 同伴三組の同行が居た。六人とも元気で、場違いな感じもする。

 亦、観光が始まる。ホテルロビーで、添乗員が点呼を取ったら、男が三人足りない。女三人は屯してドヤドヤ騒ぐ。出発は出来ないしギャーギャー騒ぐし、結局女三人をホテルに残して、何事もなく次の観光に出発した。

 男三人は、夜の親善に出掛けた由。

 夫婦で職人のグループと、サイパン旅行に参加した。

 私共と、父娘の二組は、入国ゲートを何事もなく通過して表に出た。だが残りの五、六人の男達は何時まで経っても出てこない。

 かと言って、電気屋さん、どうしたの、と言われても、私には英語が話せない。他の三人も英語が話せない。

 困り果てた。どうしようもなく、タクシーでホテルに行った。

 ホテルに着いても、幹事が居ないからどうしようもない。

 食堂で夕飯を済ませ、早々と就寝。夜が明けても同行は来ない。四人は仕方なく、地下室にある射撃場で、ピストルを撃った。半日撃っていると、お金は掛かるし、ピストル撃ちも厭きる。

 午後になって漸く、職人の連中が来た。彼等の説明に因れば、角刈りは暴力団の髪型。暴力団組員が来たと、一晩泊められた。

 結局彼等はホテルで一泊して、帰国した。

 海外旅行が全部、こんな調子ではない。

 面白いところを拾い出した迄だ。その殆どは愉しく旅行を済ませている。

 無論海外旅行は、何時も夫婦で行って、男だけでは行かない事にしている。

 娘に十倍にして軽蔑されるし、妻は誘導尋問に長けている。

 

 

021


こころの旅  茨城八郷 白日夢

 BSで、“こころの旅”と謂う、火野正平さんが自転車で繞る、旅番組がある。

 旅行会社では寺社参拝を“こころの旅”と銘打って売っている。

 私にも“こころの旅”はあった。長い歳月の間には、深刻或いは軽い悩みもある。

 四十歳頃だろうか。私は詩作の思索に行き詰まって、袋小路に紛れ込んで仕舞った。

 自分に向かう漢詩なら、個人的な意思に基づけば創れるが、社会に向かう漢詩は、創るのが難しい。

 本来の漢詩は、政治、経済、社会、宗教、人心の陳述が必須条件で、此を程ほどに理解して居ないと、作品批判に耐えられず、深く知る必要も無いが、少なくとも茶を濁し、抗弁できるだけの知識は必要なのだ。

 だが私は、未だ知識不足で、中々足許にも辿り着けないで、彷徨っているのだ。

 方策が有った訳ではないが、苦し紛れに、四駆でぶらりと家を出た。

 常磐自動車道を北上し、土浦北インターを出て、筑波山方面に向かう。国道百二十五號線を右折れして、フルーツラインに入る。

 筑波山の山脈を超えて、八郷町へ出る。石岡筑波線を通過して、笠間筑波線に出る。県営フラワーセンターが左側にある。

 更に進むと、左手に、国指定文化財の案内板があり、案内板には“茨城県新治郡八郷町太田善光寺国指定楼門”の記載がある。

 人気はない。二階に欄干を繞らした門だから、楼門と謂うのだろう。何しろ古い。

 楼門を潜ると、道を隔てて高台へ続く石段があり、石段の両脇の傾斜地には、藪に包まれた墓地がある。枯れススキと卒塔婆と、倒れかかった墓石と……、嫌な光景を見た。

 上は平坦な広場で、ゲートボールの跡が有るので、全く人が訪れなくは無さそうだ。

 本堂は今にも崩れそう。周囲に虎ロープが張られ、危険! 立ち入り禁止の札がある。

 本堂の欄間には、白龍の彫り物があり、何となく安普請の気配もする。

 庭の隅の木陰にある、ゲートボールの休憩ベンチに腰を下ろし、持参の握り飯を食い、何時も通り暫しの昼寝をした。

 突然、邊りの様子が変だ!

 時代錯誤か白日夢か……。目覚めているのか、眠っているのか皆目分からない。

 浪人達の斬り合いが始まった。

 音は聞こえない。ただ影が動いている。

 肌寒さを感じて、目が醒めた。

 辺りは夕暮れ時、「寝過ごした!」

 家に帰り、この話をしたら、妻は謂う「墓地の隣だから幽霊だよ」

 何時だか忘れたが、時代劇専門チャンネルで、見覚えのあるお寺が出て来た。壊れた寺の前で浪人達が斬り合いをしている。白龍の彫り物が見える。妻に話したら、「貴方の見たのは幽霊よ!」。

 

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020


 子供とレコード盤

 生家には撥条式の蓄音機があって、私は撥条を捲いて、兄達は何時も聞いていた。

 レコード盤は、両面に溝が掘られた、黒いエボナイト製の円板だった。盤は三十枚程入る、手提げ鞄のような立派な箱、三つ四つに納められていた。

 その箱は離れ屋に在って、私が取りに行く係り。私には重すぎるので、兄達が普段聞く盤を選び出し、一つの箱に詰め替えた。

 誰も居ないとき、私は右手で撥条を捲きながら、独りで聞いた。聞いたと謂っても、兄達が聞いていた浪曲と講談だ。

 今でも、浪曲師の名前と、作品は朧気ながら覚えていたが、文字に書くには心許ないので、サイトで調べた。

 「旅ゆかば駿河の国の茶の香り……」で始まる、広沢虎造の清水次郎長傳、木村若衛の河内山、三門博の唄入り観音経、相模太郎の灰神楽道中記、寿々木米若の佐渡情話、春日井梅鶯の赤城の子守歌、玉川勝太郎の天保水滸伝などだ。

 講談も聞いたが記憶に乏しい。邑井貞吉の八軒長屋、一龍齊貞丈の赤尾義士銘銘傳、宝井馬琴の寛永の馬術などだ。

 浪曲でも講談でも、文言は殆ど忘れたが、そのストーリーは、私の心底に棲み着いて、その後の生き方の骨幹を為したと言っても、過言ではあるまい。

 浪曲と講談は、この頃上野鈴本でも聞いていないので、消滅したと思っていたら、昨年の春、今でも講演があるよ! と友人が言うので、喜び勇んで聞きに行った。

 話しは戻るが、生家には相当の枚数が有ったのだから、クラシックも有ったかも知れぬが、他の箱を開けて見たことも無いから、其の存在すら知らない。

 もし、あの時クラシックを聴いていれば、私の心は、もっと奥深い人格に成っていたかも……。

 生家を出てからは、あの黒いレコード盤には、無縁な生活をしている。

 子供が好きな仮面ライダや泳げたい焼き君や、雑誌に挟まっていた、ペラペラなビニール盤を、電動プレーヤーで、子供と一緒になって聞いた。

 子供にも、浪曲や講談を、聞かせたかったなあ! 老人の郷愁と嗤われる丈だけど。

 妻はカラオケが好きなので、演歌のレコード盤は持っている。知ってはいるが、私は音痴だから、何となく聞く気がしない。

 そう言えば、子供が小学生の頃、学習教材売りのセールスマンに、妻はまんまと乗せられ、英会話のレコード盤とプレーヤーのセットを買ったことがある。子供に嫌われ、一度も聞かずにゴミになった。

 人生七十八年、世帯を持って五十四年、レコード盤一つを取り上げても、色々なことが有った。家族の歴史だ!

 

 

019


 二十歳の初恋

 エッセイ同好会で、初恋が次の稿題に上った。私は内心戸惑って居たが、男なら誰でも初恋の経験は有るのに、今ではすっかり忘れて、名前すら覚えていない。

 此を痴呆と謂うのだろうが、断片的な記憶を頼りに、虚構で継ぎ接ぎした。

 高校を出て、鐵工場で働いた。三本立て三十円の映画と、銭湯が何よりの娯楽だった。

 銭湯帰り、金もないのに商店街を通り抜けるのが次の愉しみ。商店街には古本屋も貸本屋も有った。勿論新本屋も有った。

 懐が厳しいので、普段は工場の洗い場で済ませ、銭湯は週二回で、貸本屋に立ち寄るのも週二回。貧乏から抜け出したい一心で、専ら技術系と社会知識の書物を貪り読んだ。

 知識の偏りは人格の偏りに通ずと、父母に諭されて、漢籍を加えた。今思えば、この選択が、人生で大いに役立った。

 だが周囲からは、却って歳不相応な年寄りじみた若僧と、映ったようだ。

 そんな男にも、春風は吹く。

 古本屋で本を漁っていたとき、私と同じ年頃の娘さんが、詩に就いて尋ねてきた。

 古びた本のページを指差し、此はどういう事……。

 娘さんの指さした詩集は現代口語詩。私の知識は古典漢詩。共通点は無さそうに思えるが、共通点は満載だ。

 年寄りじみた若僧に、声を掛ける“ひと”など居ない。私の知識箱は一気に爆発した。

 私は懐中が乏しいので、曜日を決めて週二回の銭湯だ。帰りに、古本屋に立ち寄った。先方が私に合わせて呉れたのだろう。古本屋が落ち合う場所になった。

 彼女は近くの、商家の娘さん、名前は青木悦子さん。歳は私と同じで遅生まれ。知識欲は私を凌ぐほどで、細面の色白。

 私は貧家の三男坊。兄や姉を凌いでみせると気概だけは人一倍。

 私は子供の頃から、知識欲旺盛な女性が好きで、一言半句で幸せだった。

 二人の交際は古本屋で会うか、映画を見るか、一杯二十円の盛り蕎麦を食べるか、当時としては此が精一杯。

 青木さんは、何時でも詩集を携えていて、二人が出会ったのも詩集が縁だし、話題も詩集が紡ぎ出してくれたのだ。

 当時周囲の若者は、二十二、三歳で結婚していたので、当然将来の話しもした。今のように、社会情勢が厳しくなかったから、前途は洋々とした幸せな月日であった

 私も見様見真似で詩を書いた。詩は手紙や会話と違って、嘘は直ぐに見透かされる。

 詩は人の心を如実に映す。詩を書けば自分の心を鮮明に顕す。

 妹さんが工場に訪れ、姉が急病で亡くなったの! 私は職場を変え、居所を換え、忘却に努めた。

 

 

018


 紅葉    散るものの哀れ

 街路樹には山桃や樫など、年間を通して青葉を纏う闊葉樹と、銀杏や欅など、冬の間は枯れ葉を落とす落葉樹が有る。

 闊葉樹の緑は、夏の日差しを和らげ、人の心に活力を与えてくれる。

 冬の寒い地域では、日差しを得るために、落葉樹が植えられる事が多く、木々は紅葉して人の目を愉しませてくれる。

 私も嘗て紅葉狩りと称して、紅葉を見に行ったが、同じ樹種でも附近の環境によって、雲泥の差が有る。

 例えば、空気の澄んだ環境の良い山間地の紅葉は、とても鮮やかだが、お世辞にも空気が澄んでいるとは謂えない、ビル街や道路端の葉は、紅葉と謂うよりは枯れ葉だ。

 環境と言えば空気ばかりではない。要件は雑多で、雨が多いか少ないか。其れは何時だったのか……。無論切り倒されたり、枯れたり、虫や病気に侵されたりもする。

 人生だって同じだ! 私は現在七十八歳、取り巻く環境も千差万別。隣家の親父と並べても、同じ處もあれば違う處も多い。

 苗床から出荷された幼木も、数年で枯れたり、徒長枝で植木屋を悩ませたりもする。

 “人”でも、兄弟、幼馴染み、学友然りである。香川に住む友人も、東京の友人も、紋別の友人も、環境には天地程の差がある。

 つい最近、高校の同期会があった。高校生と謂えば、十八歳という可成り絞り込まれた条件なのに、同期生三百名の中、出席したのは僅か四十九名。

 幹事の話しに因れば、所在不明や死亡や病牀や……だそうだ。

 程ほど元気な四十九名も、既に配偶者を亡くしたり、事業に失敗したり……。細君と孫とが揃っているのは、それ程多くはない。

 出席した人達にも二通り有る。一つは青壮年期、程ほど順調で、老齢の今でも、程々な活動を為し、児や孫に看取られながら、人生を全うしようとする“人”だ。

 此は“夏蜜柑”に似ている。夏蜜柑は、新芽が成長しないと舊葉は落ちない。児の枝には児の果実が、親の枝には親の果実がある。此を“人”に擬えれば、老舗の主だ。

 もう一方は、青壮年期は程ほど順調だったが、遂に老境に到ると、最後に華々しく振る舞い、児や孫の成長に沿うこともなく、人生を全うする“人”である。

 此は丁度、新芽の発育を見ずに落ちる紅葉の如く、晩婚の宮仕えにも似ている。

 紅葉は、散る者の哀れを連想させ、和歌の作品も多い。

 奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき

 見る人もなくて散りぬるおく山の紅は夜の錦なりけり

 紅葉狩りの観光バスは、谷川の潺に沿った道を進む。乗客は歓声を上げる。

 

 

017


 エッセイ教室入門記

 拙宅裏手のスピーカーから、「昨日から七十五歳の男性が行方不明になっています…」と、警察の案内放送が聞こえてくる。

 私と年恰好が同じだ。妻がすかさず、「何時もボンヤリしていると、痴呆に成ってしまいますよ!」と云う。

 近所の同輩と将棋をするが、何時も十戦九敗で、同輩の機嫌を良くする丈だ!。

 文を書くのが好きなので、市の広報を頼りに、エッセイ同好会の見学に出席した。

 同好の作品を逐一聴いた。その時に私は、従来の私とは異なることに戸惑い乍らも、気が付いた事がある。

 其れは、私の述べ方とは異なり、子供の作文のようにも聞こえたが、聴いている中に、其の判断は払拭された。

 言い回しは柔らかく、言葉遣いは母親が児を抱くが如くに温かで、その一言半句は、聞く者に挑むでもなく、抵抗感も抱かせず、話しかけたり問い掛けたりするのだ。

 ただ黙黙と思いを陳べている丈だが、聴く者をして、「ああそうだよね!」と、何となく納得させるのだ。

 聴く者は、肩肘を張らずに聞け、而も敢えて、稚拙さを滲ませ乍らも、確実に筆者の意図は述べられているのだ。

 見学会の終りには、私は既に「こんな文を書きたいなあ……」と、決めていた。

 見学会は市の施設で、五月中旬、従来会員二十名弱と、見学者十余名で行われた。先ず会長さんの挨拶、次いで講師先生の挨拶と、簡単な講話が有った。

 挨拶が終わり、其れから先は、講師先生に依る会員への、個別指導となる。

 先ず、各自が先月提出した作品に付いて、講師が作品毎に、綴り方と構成の指摘を為さる。指摘は個別だが、同席者にとっては、自筆作品への指摘でもあり評でもある。 

 見学会が終わると、次回の出欠を問われ、私は即座に、「次回も出席させてください」と即答した。

 私は、当日皆さんが提出した自筆作品の写しを戴いて、夜半まで数度読み返し、あの温かな作品の構成法を探った。

 そして、幾つか有る中の、一つの構成法を知った。即ち、趣旨の述べ方には、先ず主題を著者の前面に措いて、著者の筆は、その主題から自分の内面に向かうのか、或いは外面に向かうのかの二通りがあった。

 この度のエッセイ作品は、先ず主題を著者の前面に措き、著者はその主題から、自分の内面に向かって筆を進めたのだ。

 而して筆は著者自身から離れることなく、余談の差し挟む余地を与えない。就中余裕を持って、敢えて稚拙を差し挟み乍ら、穏やかに論旨を述べられたのであろう。

 此の構成法は和歌や詞に通じ、俳句や漢詩は、其の逆である。

 

 

016


 一冊の詩集

 私は若い頃から、前途に行き詰まっても、酒を飲んだりはしない。酒で紛らわせても、一時凌ぎで、何の解決にも為らないからだ。

 かといって、おいそれと解決法が、解るわけではないが、苦し紛れに電車に乗る。

 だが人家のない山中の駅で降りたら、気休めどころか、却って苦行に成って仕舞う。  苦行をしてまで、悩みを解決しようとは思はないので、人家の見える駅で下車する。

 市内や田畑をブラブラと歩く。何も考えずに只ブラブラと歩く。道端での野宿は嫌だから、取り敢えず投宿する。

 一人ぐらい泊まれる宿は、何処にもあり、無ければ、駅のベンチで寝る丈だ。

 前もって計劃を立てた乗車ではないから、今までの生活との繋がりはない。洒落てミニ隠遁と謂っておこう。

 宿なら冷や酒を飲む。ベンチなら星空を眺め乍ら、スルメを囓り、ワンカップを飲む。

 明日は、其処から電車に乗り、ミニ隠遁の終了である。

 メロドラマの、恋に破れて旅に出る。湯煙の宿……。此とは雲泥の差だ!

 当時のミニ隠遁は、福島、栃木、岩手、青森、山形……などの東側だけだ。

 理由は解らないが、喜寿の今でも、私は東に行くのは好きだが、西には余り行かない。

 勿論新幹線のない時代では、トンボ返りが出来るとは限らない。

 ミニ隠遁から帰ると、何故か悩みはすっかり消えている。私は心の中で、「放っておけば何とか成るさ」と、結論が出た。

 岩手の花巻に行ったとき、駅頭で冴えない青年が、ガリ版刷りの私詩集を売っていた。

 私は二言三言話して、その青年から詩集を買った。例によって、只ブラブラ歩いて、夕刻に市内で投宿した。

 冷や酒を飲みながら、今日買った非定型詩集を読んだ。読み終えて一抹の幸せを感じたことを、今でも覚えている。

 心の襞に絡み付いていた浮世のゴミが、楊枝で掻き出すように、少しずつ剥がされ、掃除されていった。

 冷や酒と昨日の疲れと、詩集の文言に心が遊び、ガラス戸の朝日が枕元に差込、爽やかな目覚めとなった。

 今朝は何故か、言い知れぬ憂さから解放され、朝食を頬張りながら、“小さな幸せ”を手に入れた。三度の飯が食える。此で充分ではないか……。

 悩み事も無くなった壮年の頃、ミニ隠遁では修養には成らないので、一ヶ月丈ホームレスを経験しようと真剣に思った。

 ホームレスなら、滝行や座禅よりも、悠に深遠な修養に成るのではと……。

 妻に言われた。乞食は三日やったら止められなくなるよ。私や子供を捨てる気か!

 散々に叱られた。

 

 


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015


忘れない情景  妙義山

 私が二十歳の頃、将来の生き様に悩んだことがある。当時の私は町工場の宿舎に住まいしていて、日々は其れなりに有為に過ごして居たが、将来には一抹の不安を抱えていた。

 解決できない思いを抱えていて、どうすることも出来ない。偶々憂さ晴らしに休暇を利用して、当て所なく電車に乗った。

 信越本線の車窓から、妙義山の嶮しい山並みを見て、その嶮しさに心打たれ、何とはなしに松井田駅で下車した。松井田駅から山裾の妙義神社を目指し、妙義神社を経由して、登山道のある中之岳神社へと、歩を進めた。

 到底その日の中には辿り着けず、畑の番小屋の軒下で、溜水を飲み、饐え掛かった握り飯を頬張りながら朝を待った。

 翌朝残しておいた握り飯を食べ、中之岳神社へ向かった。中之岳神社の鳥居前に到着したが、附近には誰も居ない。

 神社の鳥居を潜り社殿に、有りっ丈の感謝と、有りっ丈のお願いをした。

 登山口は中之岳神社から始まり、少し歩を進めると、嶮しい方と、易しい方がある。

 見上げ覗くと、鎖場が有って嶮しそうだ。私は、なだらかな方の路を選んで、少し小高い丘に出た。

 渇いた咽と空きっ腹と澄んだ空気、遥か遠を見渡せば、自分が如何に小さいか。

 暫く座り込んでしまった。

 下山して駅までの途次、定食屋が有って、残金を訝りながら、カツ丼を注文した。

 カツ丼の美味かったこと、骨の髄まで沁みるほどの美味さだった。

 電車賃もギリギリに、漸く宿舎に辿り着いた。一昨日までは、先の見えぬ将来の暗闇に悩んでいたのに、数日して身体の疲れが取れるのと相俟って、どうしたことか、何の解決策が有ったわけでもないのに、頭の中はスッキリとしていた。

 平成二十八年三月、あれから五十年、当時のことが懐かしく、電車に乗った。

 朝九時に家を出て、北千住→赤城→上毛電気鉄道→徒歩でJR前橋→信越線松井田→タクシーで妙義神社参道右側の東雲館に投宿。

 神社本殿前の広場で腰を下ろし、夕暮れまで暫しの安息

 明朝、妙義山神社本殿に参拝し、登山道の入り口に一歩立ち入り、直ぐに立ち返る

 神社鳥居前に居たタクシーに乗り、中之岳神社へ向かい、神社前の物産展駐車場で待機して貰い、見上げるほど高いところにある中之岳神社本殿参拝。

 更に石段を登り詰めた社殿前広場から、下界を眺め、嘗て五十年前に訪れた登山道に、一歩立ち入り直ぐに下山した。

 待機していたタクシーに乗り、信越線松井田駅前で下車した。人気がない! 階段下にはジュースの自販機がたった一台。

 二十歳の苦悩、喜寿の哀愁

 

 

014  


 音痴で良かった

 私は子供の頃からの音痴。お袋は程ほどに歌えたが、親父は音痴で、死ぬまで一度も歌声を聞いたことがない。

 姉貴も大音痴だったが、物凄い努力家で、カセットを数台壊すほど練習して、NHKのど自慢に応募し、予選で落ちた。

 兄貴は二人とも大音痴で、上の兄貴の歌声は聞いたことがないが、姉さんの鼻歌は聴いたことがある。

 次男も大音痴だが、仕事で仕方なくだと思うが、音痴の儘で屡々歌った。姉さんは歌が上手い。

 さて私は大音痴だが、妻は歌謡クラブの舞台で歌う。

 親父の音痴は、子供四人に引き継がれ、みな大音痴。ただ孫達に音痴は居ない。

 仕事のために、人と人とが交際する。肴を喰えば酒を飲む。酒を飲めば歌を歌う。少なくとも、通常は此処まで必要だ。

 素面で幾ら語り合っても、シビアな計算だけだ。その次に土産物を持参すると、少しは計算が緩み、端数切り捨てに成る。

 次に飲食、此で互に箍が緩む。序でに歌うと腹蔵を覗き見できる。

 だから、交渉仕事では、歌えることが必須だ。仕事に関わりなくとも、歌えることは、自分も愉しいし、周囲を和やかにするので、とても有用な行為だ。

 歌が歌えない、音痴はその真逆だ!

 私は自営だから、音痴は痛切だった。妻に教えを請うたが、ケチばかり付けて、腹が立つばかりで、遂には喧嘩。

 歌謡教室へ行ったら、子供が笑い出した……。母親曰く、「笑っちゃダメ、やっと我慢してるんだから」。

 家の近くに、詩吟教室を始めた人が居た。

彼は岩淵さんと謂い、生徒は誰も居ない。

 事情と経緯を話したら、音痴でも詩吟は出来るよ、教えてやるよ! と謂ってくれ、その甲斐あって、人前で出来るよに成った。

 酒席で披露したら、「酔いが醒めるから止めてくれ!」。

 その後は、歌うのは諦めて、歌わなくても済む仕事に方向転換した。

 音痴でも、どうやら世渡りが出来た。

 序でに、想像をしてみよう。もし音痴でなかったら……。

 先ず酒を飲む席に、臨んだだろう。私はバカだから、籠絡の弊に陥ったろう。其れは可成り確率が高い。

 もし歌が程ほどに巧かったら、もっと巧くなって歌手になろうと、考えたかも知れぬ。私は自惚れ屋だから、駄目に気が付く迄に、人生の半分を無駄にしたろう。

 今にして思うと、歌が歌えたら、今よりずっと愉しい時間が過ごせただろうな……。

 其れより前に、飲み過ぎて糖尿か、アル中か。だから音痴で良かった。

 

 

  013  


 乾し草の香り

 “屁をひって可笑しくも無し独り者”、と謂う川柳がある。“屁をひって亦叱るなり古女房”、私は古女房に叱られる方だ。

 私の鼻は良い方ではない。理由は定かでないが、何時のまに効かなくなった。

 だから自分の屁には、余り被害を自覚していない。でも何時でもと言う訳ではなく、偶に自分の屁を自覚するときがある。

 偶に嗅ぐ己の屁の臭さ、本当に臭い!

 此なら文句を言われても、当然と思う。だが私は、直ぐに忘れてしまう。

 「親しき仲にも礼儀あり」と釘を刺されるが、其れも亦直ぐ忘れてしまう。

 子供の時から、臭いに疎い訳ではなさそうで、香しい花や青草の香りも知っている。

 少し格好を付けて言わせて貰えば、線香の臭いと、胸中落涙の経験と……。

 あの時の線香の香りが、長く脳裏に焼き付いたと、下手な言い訳をしよう。

 線香は兎も角として、刈り取られた青草の香りは、子供の時から好きだった。

 父母は野草を刈り取って乾し、農耕牛の飼料の為に、牛小屋の隣の納屋に、詰め込んであった。乾し草の中に潜り込み、全身で嗅いだ青臭い香りは、原稿を書いているこの場でも、漂ってくる程脳裏に刷り込まれた、私の大好きな香りだ。

 四十三歳の夏、北海道紋別郡清里の友人、工藤酪農牧場へ行った。牧場では、将に猫の手も借りたい夏場の忙煩期である。

 私は朝は四時起きして、大型モアーで草刈りをした。刈り取られた草は、直ぐに広げ、夕方には、列状に集めて夜露を避ける。

 朝一番で撒き散らす。草を刈る。広げる。集める。翌朝亦撒き散らす……。斯くして五十町歩の牧草畑の収穫する。

 北海道の秋は早い。

 あの時の香り、子供の時から大好きな、あの香りに包まれた、愉しい夏であった。

 工藤君が言うには、北海道の農家は概ね五十町歩、酪農家は二百町歩だそうだ。工藤君の家は、父の代は農家だったが、収入が不安定なので、収入の安定した酪農に、切り替えたそうだ。

 清里に着くと、バスの車窓から入ってくる風は、私の好きな乾し草の臭いと、青臭い牛糞の臭いがする。

 バス停前の万屋から電話をすると、目の前だから直ぐに迎えに行くよ! と謂った。

 二キロ先だった。

 線香の香りは、悲しい思い出だが、乾し草の香りは愉しい思い出である。

 鼻がもっと利いたら、もっともっと佳い臭いも嗅げるのに、羨ましい。その反面、臭い匂いを嗅がなくても済む。

 この頃、山の水だって売れるから、田舎の空気も「カントリーエアー」で売れるかな。 中味は軽いから運賃は安いと思うよ!

 

 

  012


 冬服

 私は、冬の寒さは差ほど苦痛ではないが、夏の暑さは、とても厳しい。

 寒さなら、重ね着すれば耐えられるが、暑さは、幾ら脱いでも限度がある。

 六十三歳から十三年間、学校要請のボランテイアで、小学生の交通見守りをしていた。

 当初は、朝昼の両方を引き受けていたが、暫くして朝だけを受け持つことにした。

 共働き家庭の児は、六時半過ぎに私の前を通る。子供にも寒さに強い児と、弱い児が居て、雪達磨のように重ね着している児も、ジャンバー一枚の児もいる。

 児童でも、ホカロンを二個も付けている児が居て、私もホカロンの愛用者だ。

 私は若い頃、駐車場や私道の整備に、千葉の川崎製鉄から、鉱滓を運んだ事がある。

 溶鉱炉前の広場には、鉱滓が山積みされていて、トラックに積み込むと、化学反応を起こして火傷する程ではないが熱を出す。

 此を私道や駐車場に降ろして広げると、一日近くは暖かになる。

 その後暫くして、ホカロンが発売された。

 頭の良い人が、鉱滓を袋に詰めて、“揉み解すと熱が出る”ホカロンの発明である。

 ホカロンが売り出されて、直ぐに気が付いた。「儲け損なった!」と、トラック運転手の俺と、頭のレベルが違うよ……。

 ダブルの背広。この頃は葬儀ばかりだが、季節の変わり目は困る。寒いだろうと冬用を着用すると、室内が暑くて暑くて。暑いだろうと夏用を着てゆくと、墓地でブルブル。

 過ぎたるは及ばざるが如しと謂うが、過ぎたと、及ばないのでは、同じではない。

 言葉の言い過ぎは、取り消せないが、謂い足りないのは補追が出来る。

 他にも探せば、枚挙に暇がない。

 冬の寒さは重ね着出来るが、夏の暑さは脱ぐに脱げない。依って夏の暑さは嫌いだ。

 若い頃、妻は毛皮のコートをせがんだが、この頃は、不要な衣類の整理をしている。

 私は当時の懐中を思い出し、口には出さぬが、ふと毛皮のコートが頭を過ぎる。

 子供の頃も若い頃も、兎に角寒かった。皮下脂肪が少ない上に、衣類も今とは比べものにならない。懐も隙間風が通り抜けていた。

 気儘勝手に生きて来たので、老後の年金は当てに出来ない。年齢と相俟って、懐中は冬の厳しさが増す。

 腹巻きで懐が暖まるなら、札束の腹巻きが欲しい。却って金冷えするかも知れないが、金冷えしても良いから経験してみたい。

 ただ良いのか拙いのか、若い頃痩せていた躰も、冬服宜しく皮下脂肪が付いてきた。

 皮下脂肪で温めてくれれば嬉しいが、皮下脂肪のお陰で、医療費が嵩み、懐中を蝕まれては堪らない。

 夏の暑さは厳しいと思っていたら、冬の寒さの方が更に難しい。冬服は大切だ!

 

 

011


 新年の抱負

 ここ数年、新年参拝は、「何事も昨年通りでお願いします」と祈る。

 十代のお願いは、先ずは学業の上達だ。

 二十代のお願いは、異性へのお願いだ。

 三十代のお願いは、どうしたら飯が食えるか、先ず眼前の要望だ。

 四十代のお願いは、将来への渇望だ。

 五十代のお願いは、人生への疑問だ。

 六十代のお願いは、健康への不安だ。

 七十代のお願いは、今まで通りで有って欲しい、とのお願いだ。

 今年のお願いは、「妻より先に死にたい」と謂った。

 孔子の言葉に、〈子曰,吾五十而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲,不踰矩。〉と有る。

 私はこの言葉を知らぬ訳ではないが、理想と現実の隔たりの多さに、我ながら呆れる。

 そして今年の、「妻より先に死にたい」とは、なんたる不謹慎だ。

 日本人は無宗教だと謂われるが、あれこれ指図されるのが宗教か? 飴と鞭で飼い慣らされるのが、宗教か?

 宗教の名の下に、普段の生活まで指図されるのは、日本人には馴染めない。

 此は神社の話しだが、日本の神道に教祖は居ない。強いて謂えば、教祖は自分自身だ! 悪いことをすると、罰が当たるぞ!

 此は神社に祀られている御祭神が謂った訳ではない。親父か、お袋か、兄貴か……。

 自分にも子供が出来れば、子供に對して、悪いことをすると、罰が当たるぞ! と謂うだろう。いつの間にか自分が神様に成っているのだ。

 寺院にはちゃんと教祖様が居る。お釈迦様だ。葬式仏教などと揶揄されるが、此も一神教などと比べて生温いから謂われるのだ。

 仏教の教祖は、「生き方」を教えてくれるだけで、飴と鞭で手懐けるようなことはしない。佛は貴方の心の中に居ますと謂う。

 では神道も仏教も、遣りたい放題かというと、そうではない。

 社の有無には差ほど関係がないが、神道には古来から受け継がれた「万物に感謝する」と謂う、暗黙の教義がある。

 だから自然と手を合わせて、感謝とお願いをする。家庭でも、お母さんに手を合わせ、お小遣い頂戴と謂う。

 仏教には、相応の施設があって、何処でもと謂うわけではない。仏教伝来以前は、先祖崇拝は神道の受け持ちだったが、仏教が伝来してからは、神道は「はれ」を受け持ち、仏教は「け」を受け持つこととなった。

 だって日本人は、自分の心に佛を宿す神様なのだから……。だから神道と仏教を、自分の都合に合わせて使い分けているのだ。

 因って私は新年の参拝で、「妻より先に死にたい」と、本心が謂える。

 


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  010


啓蟄

 冬の寒さを避けて冬籠もりしていた虫が、地上に這い出す時期を啓蟄という。

 私は啓蟄に忘れ得ぬ懐がある。

 私の母は、啓蟄の日に羽化した。

 厳しい冬の寒さから、漸く春の暖かさが訪れようとする、あの日の朝、母羽化の知らせが、電話機の激しい音と共に訪れた。

 私は妻子を抱え、食うや食わず、先の見通しが漸く立始めたが、未だ五里霧中の時、心の支えにしていた母が亡くなったのだ。

 母は六十歳頃から関節リウマチに罹り、一日毎に身の不自由と、激痛に苛まれていた。

 今でもリウマチは不治の病だが、当時はその場凌ぎにトクホンを貼る程度で有った。

 痛みに耐えきれなくなると、痛み止めの注射を打ったが、注射一本が当時のお金で、一万円余りだったので、現在の価格に換算すれば、十万円に相当するだろう。

 その当時、国民健康保険の有無は、記憶に無いが、勿論私は食うや食わずなので、羽振りの良かった兄が支払っていた。

 父母は筆まめで、生家を離れた三男坊に、父からの手紙であったり、母からの手紙であったり、屡々手紙をくれた。

 私は何時も欠かさず返事を出した。

 だから父母は、何時も私の身近に居てくれたのだが、その父は、脳梗塞で弁も筆も覚束なくなった。

 その後、母もペンが持てなくなり、他界の一年前頃から兄嫁が代筆してくれたが、サインだけは最後まで欠かさなかった。

 世に、親と子の繋がりが疎いと謂われているが、私の父母は鬱陶しい程に、私に語り掛けてくれた。

 でも矢張り、居なくなると寂しい。

 母は報徳道を父は論語を、その都度実生活に依拠し、ハガキで教えてくれた。

 そう言う私は、読むだけで右往左往し、実生活には、中々結びつかなかった。

 何年も何年も、私の長い冬籠もり、漸く前途が見え始めてきた矢先、母が啓蟄の朝に羽化した。

 寝顔は穏やかで有った。

 父母が口を揃えて謂ったのは、棚から牡丹餅は落ちてこない。自分で為した分だけしか還ってこない。自分が為した分は、良きにつけ悪しきにつけ、何れは還ってくる。

 学んで居ないから、騙されたりする。今にして思えば、流行のオレオレ詐欺も、学んでいないから騙されるのだと思う。

 運不運は、均等に繞っている。どれを掴むか、掴まないかは、自分自身だ。

 いま私がどうやら三度の飯が食えるのは、母から教えて貰った報徳道と、程ほど社会で生きて行かれるのは、父が教えてくれた儒教のお陰だろう。

 啓蟄は毎年訪れる。啓蟄は母の命日と重なって、一層に感慨深い。

 

 

  009


 春節の縁先

 私は千葉県生まれ、農家の三男坊。何れ生家を出ることは、子供の頃から弁えていた。

 それ程の田舎ではないが、生家には、陰暦紙面と陽暦紙面のカレンダーが掛けられていた。そして、親父が器用者なのか、或いは金がない為か、程ほど体裁の良い、自分で創った仏壇と神棚が設えてあった。

 父母は特段に神仏壇を崇拝する訳ではないが、時折神仏へ簡単素朴な祀り事をした。

 何故もそんなに祀り事を知っていたかと謂えば、台所の壁に掛けられていた陰暦のカレンダーに、絵付きで事細かに祀りの方法が示されていたからだろう。

 子供の時のことだから、祀りの方法は、殆ど忘れてしまったが、春節の頃に縁先で父母から謂われた事だけは覚えている。

 「お前は、生まれてから死ぬまで、一生に渉って誰かの恩恵を受けなければ、生きては往けないのだ」。

 「世話をするのは、親ばかりではないぞ!

お前が生家に居るのは、ほんの僅かで、何処ぞの軒下で雨露を凌ぎ、魚を殺し、獣を殺して肉を食い、植物を刈り取って煮炊きし、日々生きているのだ」。

 「自分が生きるという事は、相手を殺す事でも有るのだぞ! だから、少なくとも相手に感謝する事だけは忘れるな……」、と父母は私に謂った。

 そして「時々お供え物をしてお祀りをしているのは、感謝の心が有っても、目に見える像で行動をしないと、つい忘れて仕舞うからだよ」。更に、「駅員が指さし確認をしているのと同じで、指さし確認をしていれば、初心を忘れないからな!」

 「人が生きて行く上で、世話になっているのは、食べ物ばかりではないのだ」。「周囲の世話に成らずには、衣食住の総てが成り立たないのだ」。

 「物事は良い事でも悪い事でも、外に對しても自分に對してでも、為した事だけが還ってくるのだ」。

 「助けなければ助けられる事もない。学ばなければ、禍から逃れる事も出来ない」。

 「身近には、助けたり助けられたり。少し時間を隔てれば、因果応報。もっとずっと歳月を隔てれば、因縁と謂うのだ」。

 旧正月の縁先で、父母から聞かされた、人生の指針は、今でも忘れない。

 世帯を持ってから欠かさず、毎朝老妻と共に神棚に手を合わせ、昨日のお礼と、今日の安穏を祈願する。だから今まで災禍を逃れ、道に逸れる事も無かった。

 此は毎朝出掛ける前に、駅員と同じ様に、指さし確認を怠らなかったからだ。

 駅員だって、指差し確認をしなかったら、鉄道事故に成っているかも知れない。

 昨日の反省と、今日の安穏を祈ると、横道に逸れたくても逸れられない。

 

 

  008


 子供の頃の味

 妻の小物作りの聚まりも、年齢と共に数が減り、ここ数年は持ち回りではなく、私の家が定宿となった。集まりの日は、出掛けるように心掛けているが、家に居るときもある。

 狭い家だから、話し声が筒抜けだ。

 「うちのお父さん、食べ物は五月蝿くなくて助かるけど、美味い! とも、不味いとも云わないので張り合いがないの……」。

 「何を作っても、不味い! の連発で、腹が立つわ……」。

 「女性に生まれて損よ! ずうっと死ぬまで、ご飯を作り続けるなんて……」。

 私は内心「俺だって其れなりに努力したのに……」。隣室からは、謂いたい放題が聞こえてくる。

 女性の話題は、食べ物の話題が多い。其れも数年前の食事を、昨日の様に覚えている。

 さて盗み聞きの序でに謂うと、毎日の食事は豪華ではないが、私は何を食べても、美味しく食べられる。

 調理が巧か? 私の舌が鈍感か? 妻の調理も程ほどだし、私の舌も鈍感ではない。強いて謂えば、私は何を食べても、美味しく感じられる食性が有ると、自負している。

 「人の味覚は、十歳頃迄に習得される」、と聞いたことがある。

 私の十歳までの歳月は、生きる為には何でも食べた敗戦前後の日々だった。

 生家は農家で、今で謂えば、臭いトマト、苦い瓜、泥臭い魚、堅い木の実……。どれも此も、食物本来の味わいを持っていて、其れが美味しかったのだ。

 農家なので、食べ物は十二分に有って、空腹の記憶はない。依って、空腹だから美味しかったのではなく、食物本来の味が美味しかったのだ。

 然し、近年の農産物は、大衆の趣向に迎合し、無味無臭甘味で噛み易いに改良されて、作物本来の美味しさを失っていった。

 テレビ画面で、果菜を一囓りし、「柔らかいですね!」「爽やかですね!」「甘いですね!」と謂い、とても美味しいと評価する。

 柔らかくて、爽やかで、甘いのが、美味しいのか? 堅く、臭く、苦いのは美味しくないのか?

 食通の説に依れば、「味覚の乏しい人は、取り敢えず、無味無臭甘味噛み易さを美味しい」と判断するそうです。

 幸か不幸か、子供の頃の私は、小魚は小川で、農作物は畑から採って食べていたので、食物本来の味を知っていた。

 だから、あの苦くて美味しい、苦瓜の味が懐かしい。トマトは臭みもなく、ただ甘い丈では、味を愉しむには程遠い。

 そう言っても、私の舌は既に味を忘れて、唯懐かしんで居る丈かも知れない

 この頃は農作物本来の味が見直され、昔の農作物を作る農家が出て来た。

 

 

  007


 夏山の甘味

 三十歳代後半、経緯は忘れたが、私には、〈山本君〉と謂う同年輩の、登山の師匠がいた。彼は小柄だが、足首は私の股位太いし、筋肉の塊みたいな男であった。

 彼は私に、山登りは好きか? と尋ねた。そう聞かれても、私は今まで高尾山と、筑波山と富士山しか登ったことがないのだ。

 山登りは好きでも嫌いでもない。ただ機会がなかっただけだ。

 今までの経験を話してから、誘ってくれれば同行します! と、答えた。

 彼から渡された用品メモを持って、秋葉原の〈ニッピン〉と謂う、登山用具店に行き、何が何だか分からない儘に、彼が書き出したメモを店員に示して、買い入れた。

 あれから四十年余り経つが、若き日の想い出と、今でも使えるもは、普段使いにしている。ただ未だに何だか分からぬ品もある。

 彼は年間を通して登山をしていたが、七月と八月の二ヶ月間丈、私を誘ってくれた。

 電車で行ったり、新宿駅から登山客ツアーバスに乗って現地まで行った事もある。何れの時も、私は松本君の後をついて行く丈だ。

 現地に着くと、十人ほどのグループに成って登山をする。

 栃木の那須岳ケーブル駅脇の登山口から、那須岳山頂に到り、朝日岳への途次、お一人のご婦人が、その場に立ちすくんだ。

 知らぬ者同士の寄せ集めだから、誰も見向きもしない。松本君も知らぬ顔。

 私はご婦人に声を掛け、リックを私のリックの上に載せて、二人分を背負った。空荷に成った彼女は、朝日岳に登頂し、三本槍岳を経て下山し、三斗小屋温泉〈煙草屋旅館〉に到着した。

 私は煙草屋旅館の前で、リックを渡し、其の儘何も聞かずに別れた。翌る朝出立の時、昨日のお礼です! と謂って、チョコレートを呉れた。

 あの時のチョコレートは美味かった。

 自分から計画した登山では無かったのに、そのご婦人とは、その後も何度か逢った。その度にチョコレートを貰った。

 七月と八月の二ヶ月間で、松本君の後に付いて、年に三四回は山登りをしたので、五年ほどの間には、相当の数は登った。

 山登りを止める切っ掛けは、下山途中、後の方から女性の悲鳴が聞こえた。

 知らぬ者同士の一行は、その場で足止めとなり、猛者がロープで断崖を降りて、下の方から、ロープを継ぎ足してくれ! と、声がした。数人で五〇m下の、木の枝に引っ掛かっていたご婦人を引き上げた。

 私は恐くて何も出来ず、帰宅して有りの侭を話したら、「山登りは止めなさい!」と、妻に一喝され、松本君との縁は切った。

 その後は、今まで通りの、高尾山と筑波山だけである。

 

 

006


 青春の思い出

 学習会の帰途、少しの質疑を理由に、数人が喫茶店の席に着いた。

 話題に話題が引き継がれ、芋づる式に枝葉が付いて延び、誰謂うと無く、摩訶不思議な体験が話題になった。

 経験には、恐い経験と、嬉しい経験の二通りが有って、抑も話をしている御本人が、理路不鮮明で理解出来ないからこそ、恐かったり嬉しかったりしたのだ。

 もともと、個人的な経験談だから、聞いている方も其れに合わせて、程ほどな理解で、その場に合わせ、程々に納得する。

 人は、通常では理解できない、怪奇な場面に遭遇する事は珍しくはなく、数人集まれば、数件の話題がもたらされる。

 私の周囲には理屈っぽい人が多いから、怪奇とは謂って呉れないが、珍しい場面に遭遇したことは幾度か有る。子供の頃〈火の玉〉を見て、生け捕りにしようと、?網を翳して追いかけた事がある。

 此を話すと、団子状に成った夜光虫を見たんだろう……。或いは、地中の屍体から滲みでた黄燐が燃えたのだと、理路整然と述べられ、私の怪奇談は即座に消える。

 私が四十歳の頃、墓地の移設があった。私は恐いから関わりを断ったが、事業主は高給を払って数人を充てた。

 聞く處に依ると、土葬墳墓の周囲に、白黒の幕を張り繞らせ、僧侶が読経を為し、小型重機と人手で人骨を掘り出したそうだ。

 埋葬して日が浅い、若いご婦人の土葬墳墓があって、肉片も黒髪も、其れは其れは怖ろしかったという。

 私は作業員の管理をしていて、数人の作業員が、就寝中に魘されたと報告があった。

 日を逐う毎に、墳墓移設に関わっていない作業員まで魘される始末。

 私は懇願され、移設に立ち会った僧侶の寺を尋ね、事情を話したら、僧侶は半紙五枚に何やら経文を書き記して祈祷を為し、各自の枕元に張る様に指図した。

 とても五枚では足りないので、私が十五枚書き足して、二十人に手渡した。

 明朝、作業員達は口を揃えて、監督さんどうも有り難う。グッスリ眠れました!

 知人に仏教に詳しい者が居る。彼が言うには、摩訶不思議とは、〈人智を越えた素晴らしさ〉を意味する言葉だそうだ。

 私が若い頃、将来に想いを馳せた商家の娘さんが居たが、急な病で登仙した。

 私はひたすら忘却に努め、その後長らく記憶の片鱗も消え失せていたが、五十年後に、突然に夢枕に顕れたので有る。

 その思いを詞に綴った。

  〈在心里に、何故に居住?何故に隠藏,私かに慕いて何に由らん,私かに酌めば忽ち醒める……。〉

(心の内に、何故に住まう? 何故に隠れる,ひそかに慕いて何に由らん,ひそかに酌めば忽ち醒める……。)

 私の摩訶不思議は、この事だろう。

 

構成の解説

 この標題〈青春の思い出〉は、エッセイの表題として与えられた、“摩訶不思議”の派生として使用した、私的な標題で有る。 この作品を1−導入部    2−内と外が曖昧な叙事   3−外に視点を向ける叙事    4−内に視点を向ける叙事の4っの叙事で構成した。

1−「学習会の帰途、少しの質疑を理由に、数人が喫茶店の席に着いた。……から、人は、通常では理解できない、怪奇な場面に遭遇する事は珍しくはなく、数人集まれば、数件の話題がもたらされる。」があり、ここは導入部で、著者の意思は何も陳べられていない。

2−「私の周囲には理屈っぽい人が多いから、怪奇とは謂って呉れないが、珍しい場面に遭遇したことは幾度か有る。……から、或いは、地中の屍体から滲みでた黄燐が燃えたのだと、理路整然と述べられ、私の怪奇談は即座に消える。」までは一般的な叙事で、著者の意思は陳べられていない。

3−「私が四十歳の頃、墓地の移設があった。私は恐いから関わりを断ったが、事業主は高給を払って数人を充てた。……から、明朝、作業員達は口を揃えて、監督さんどうも有り難う。グッスリ眠れました!」までは、世間の常識とはこんなものだ! と、視点を社会常識に向ける。

4−「私が若い頃、将来に想いを馳せた商家の娘さんが居たが、急な病で登仙した。……から、五十年後に、突然に夢枕に顕れたので有る。」までは、私的な経験で、私にとっての摩訶不思議な“事象”は、世間の常識とは別に、本当にあるんだ! と結論する。

解説;
 起承転結なら、標題を“私の経験”とするだろうが、これでは単に経験談、事後報告で終わってしまう。私は、起承轉合を採用し、標題を“青春の思い出”とした。この標題によって読者は、夢枕の“事象”を各自、自分に置き換えて、思いを膨らませる事となる。これによって、著者と読者が、思いを共有出来た。

 


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  005


 六割の凡夫

 私は嘗て「頭を六割、躰六割、併せて十二割で生きてきた」と謂ったら、程ほどに生きて十二割とは……と、良い方に誤解され、却って恐縮している。

 私は四人姉兄の末っ子で、既に私の脳味噌と身体になる栄養は、上の姉兄で使い果たされ、お袋の畠にも、親父の種にも残って居なかったらしい。

 だから結果として、子供の頃から余り勉強は得意ではなかったし、更に駆け足は、何時もビリだった。

 だが、希望しなくとも、背丈は大きくなるし、色気は付いてくるのだ!

 〈歳月は人を待たず〉と謂うが、私は実社会に出て、否応なく自分自身の有様を、自分から納得せざるを得なかった。

 喰わんが為とは分かっていても、挨拶とお世辞には、訳の分からぬ拒否反応が有って、巧く立ち回れなかった。

 この儘では妻子を養えないので、“他人”と同じになろうと、努力に努力を重ねたが、自己の性格を変える事は出来なかった。

 職務はその殆どが協業で遂行され、且つ競争を育むので、当時の私は、死ぬまで競争に晒される宿命と思っていた。

 図らずも三十歳の頃、筋肉リウマチを罹患した。遂に切羽詰まったとき、「己を改めるのではなくて、己の都合に合わせよう」と、生き方を換える事に気付いた。

 この競争から抜け出るには、競争に加わらなければ良い丈の事で、私は競争に加わらない道を選んだ!

 競争のない職務なんて無いよ! と謂うだろうが、社会を見回せば、全く競争が無いとは謂えないが、互に競争しない職務は、幾らでもあった。

 今まで見当たらなかったのは、自分から目を向けて居なかったからだ。

 悔しい哉、競争社会では、私は六割の能力しかないと自覚して居たが、得意分野なら、充分に能力を発揮できる事を知った。

 嘗て私は「六割を使って」と謂ったが、「他人と比べ六割の、頭と躰の両方使って、人並みの成果を上げた」に言い換えよう。

 生まれ付いての不得手な物事は、幾ら頑張っても、疲労困憊するだけだが、好きな仕事なら、幾ら精を出しても、其れが却って活力になり、疲れを打ち消してくれる。

 競争相手の居ない仕事を選べば、競争しないでも済む! 至極簡単な事だった。

 欲を云えば、頭も躰も目一杯には使わず、空きを少し残しておくことだ。そうすれば、ストレスは無いし、アイデアも浮かぶ。

 私も長く生きていると、若い頃には、あれ程に拒否反応のあった軽口も、今ではすっかり消え失せ、つい口を滑らせ、空お世辞も言うようになった。

 此は此で悩みだ。

 

 

004


 ある夏の日

  あの日の日差しは、私の肌に、針を刺す。浜風は火照った肌を、一時的に癒しては呉れるが、其れはあくまで、火照った肌丈で、心身迄は冷やしては呉れない。

 私は四十歳代の頃、仕事を掛け持ちして、週の四日は福島県浜通の現場で、二日は茨城で自営の仕事をした時があった。福島浜通り浪江では、土木工事の助監督で、人員配置と作業の指導監督が主な職務だった。

 助監督は、中途半端と視られるが、私は監督と殆ど同じ知識と、職人の八割程度の職能は身に付けていると、自負はしていた。

 ただ監督と異なるのは、命令権限が無いことと、常雇いで無いことだけであるが、此は私にとっては、眞に好都合なのである。

 其れは、仕事は為すが仕事に使われるのはご免だ! が、私の座右の銘だからである。

 監督にもランクがあり、本社の監督は、真新しい作業衣と長靴で、邊りを見回し、現場監督からの報告を受ける。

 現場の監督は、事業所の職員で、近くに宿を取り、作業が終わると、助監督に言いつけて、さっさと宿に引き上げる。

 宿に帰った現場監督が、何を為すのか、私は知ろうともしないが、どうせろくな事をしていないだろう事は、想像が付く。

 助監督は、寄せ集めの土工、重機オペ、運転手、設計、事務、炊事のご婦人や刺青者まで雑多で、百数十人に目配せをする。

 私は工事会社の職員ではないので、余計な金を使いたくない事と、籠絡の弊に陥らぬ為にも、飯場での寝泊まりをしていた。

 酒が飲みたければ、家に帰ってからにすれば良いだけのことで、飯場では、自称酒が飲めない男として、飲みたい酒も付き合い一杯だけとした。

 定宿から出勤した監督さん! 何時の間にか、事務のご婦人と一緒の出勤ですね!

 世の中には、旦那が単身赴任のご婦人も多く、監督のような格好の良い男は、狙われやすいのだ!

 私は雇われ助監督で、何処の馬の骨か解らない。そして時々勝手に家に帰ってしまう。

 私にとって、其処は生活費を稼ぐ目的だけに来ているのだから、その場はその場で、後腐れ無く、一線を画していた。

 あの日は、殊に朝から暑かった!

 私は雇用主に頭を下げ、「茨城での仕事が忙しいと、女房が口五月蝿いので」と、逃げ口上を言って、未練なく其の現場を去った。

 あれから三十年、あの頃は若かった……。

 当時、其の地域は裕福で、補助金の何たるかを訝りもせずに、ただ浮かれていた。

 浪江は、双葉の隣町で、原子力発電所の排気塔が、少し離れた目の前に見えた。

 私も其処に津浪が迫り、空からは放射性物質が降る事など考えもせずに、ただ漫然と日を過ごしていた。若い頃の追懐である。

 

 

003


 岩手北上

 年寄りの気紛れと謂えば、其れまでだが、家庭菜園の草取りと植え付けが一段落し、丁度手の空いたのを見計らったかの様に、私は何とはなしに東北新幹線に乗ってしまった。

 話は横道に逸れるが、私は四十歳代から漢詩詞壇を主催していて、会員の中には歌壇や俳壇に加盟している者も居た。

 歌壇に加盟する会員の一人から、日本現代詩歌文学館への納本を勧められた。

 彼の歌壇では、上梓毎に納本しているそうで、彼は私の知る数少ない歌人や俳人のお名前も知っていて、而も、偶々彼が詩歌文学館に納本に赴いたとき、現冊を観たと謂う。

 この話を聴いて私は、俄に私も能村登四郎先生と同じ書棚に並べたい! と、愚かな見栄が、心の隅を過ぎった。

 其れは、能村先生は、私が高校生の頃の担任で、而も俳句の師匠でもあり、先生が蛇笏賞を頂いたとき、同窓に諮って歓迎会を催した事があった

 教えられた事務局の住所に手紙を出し、資料と電話で、其の有様を確かめ、製本屋に命じた。上梓の度に贈本を繰り返し、私も自覚せずに十年余りの歳月が過ぎた。

 三日前、突然に日本現代詩歌文学館に一度は行きたいと思ったのは、この頃急に訪れた体力の衰えが、言い知れぬ老境への恐怖と、その真逆とも謂える人生への安堵感が、私の心を過ぎったからだ。

 そして更に、この頃は今まで脳裏も掠めなかった、若い頃のことを思い出すのだ!

 私の詩詞集が、岩手北上の文学館に納本されている事実を、老境に至らぬ前に、この目で確かめたいと謂う、たわいもない思いが、私を東北新幹線に乗せたのだ。

 人生の終いに何をすべきか、他人に知らせたいのなら、自叙伝を書けばよい。写真を撮れば良いではないか。

 死んだ後で生き様を陳列し、思いを開陳したところで、其れが何なんだ!

 死んでも、生きていた時と同じように、自分の生き様の評価が解るのか? 

 死ねば斎場の煙となるだけで、人の噂も七十五日と言うが、死者への記憶は、他人ならもっと短いかも知れない。何時までも覚えているのは、恐らく身内丈だろうし、其れでも十年も経つと、殆ど忘れている。

 何れにせよ、死んだ自分には、確かめようがないのだ! 

 別離に臨んで為すべき事は、後に残る者に対しての云々でも有るまい。其れは己が己に對しての、総決算としての記憶の掘り起こしと整理だろう。

 自分史も写真集も、自分自身の総決算だ!

 私の作る詩詞は、誰にも語ることのない、心の襞を書き留める! とでも謂おう。

 でも少しは、現世に対する欲はある。誰かに読んで欲しい。

 

 

002


 映画

 私が初めて映画を見たのは、敗戦後四五年後の中学生の頃であつた。橋を渡り都内に入ると封切館は有ったが、江戸川の手前では、三本立て百円で、半日は悠に愉しめた。

 其れは小雨か夕立、時には落雷でプッン。小雨夕立落雷とは何か? 当時の映画フイルムは高価で、映画館どうしが、一巻のフイルムを互に持ち回りで映していて、映し終わると、フイルム運びをする人に托して、自転車に積んで次の映画館に運ぶのだ。

 だから、次のフイルムが来ないと上映できないし、フイルムは酷使されて傷だらけで、画像は小雨の窓越しを望むが如くである。次は夕立、時にはピカッと光って真っ白! フイルムが切れた! 映写技師は手早くフイルムを繋ぎ合わせ、上映を続ける。

 三本立て百円の中の一本は、継ぎ接ぎだらけで、画面が飛んでいることも屡々。其れでも懐中の厳しい私は、分相応と納得をしていて、とても愉しい時間を過ごした。

 こんな状態でもちゃんとしたトーキーで、音声はフイルムの縁にアナログの情報が焼き付けられているのだが、これも大分磨り減っているので、ガラガラ聲の阪妻。

 映画は影絵から進化した機巧で、影絵の絵は連続して移動するが、映画の絵は連続して移動はしていない。

 走行中の車を瞬きして見ると、瞳には自動車の一瞬の姿だけが映る。亦次の瞬間には、少し動いた一瞬の姿が映る。

 映画の場合は一秒間に二十四齣の絵が、途切れ途切れで細切に映し出されるのだ。細切れの絵にも拘わらず、人の視覚神経は其れに追いつけず、連続していると錯覚する。

 今までのフイルム式映画は、面積のあるフイルムの画像が投影されていたが、現在の映画館での投影は、BD版などにに収録されたデジタル信号に因って投影されている。

 BDに収録された映画の情報は、それ相応の価格だろうが、其れを収納するBD版は安価だから、フイルムの様に持ち回りで使う事は無くなった。

 そのデジタル信号によって画像を投影するには、先ず“點”を投影し、その点を連続させて“線”となし、その線を連続させて“面”として、一面を構成するのである。その後は銀塩フイルムと基本は同じである。

 さて話を戻そう。

 先ず映画館前の上映ポスターで胸躍らせ、映画館に入ると、入り口に切符売り場があり、次にキップ剪りのお姉さん居た。

 中に入り席に着くと、駄菓子売りが来る。森永キャラメルではなく林永キャラメルだ。駄菓子には素昆布、芋飴、風船ガム、紅梅キャラメル、かっぱ飴など種類は豊富で、どれも五円前後だった。

 時には隣席に心躍らせることもある。愉しい青春の一ページ

 

 

 


001

  平成二十八年四月二十八日、昨夕より雨天で有る。現在の私は衣食住を賄う為の仕事は辞め、晴耕雨読と洒落込んでいるが、五十五歳までは生活費を得る為に働いていた。

 土方殺すに刃物は要らぬ、雨の十日も降ればよい! と云われるが、土建職では無かったが、私には野丁場の下っ端監督をしていた時期があった。役務上、雨だからと云って仕事を休んでは居られない状況も有った。

 大雨なら都合が良いが、今日みたいな小雨の時が、下っ端監督を悩ませる。

 仕事を早めに切り上げようか? 続行しようか? 事故の懸念と工期の責任と、自分の持病が再発するのではと、其れなりに色々とあるが、そんな時、私には其の判断基準が有るから、それ程には悩まない。

 私には親からの遺言がある。 「人生は、自分が健康で妻と子供を幸せにすることが目的である。仕事は人生の目的を達成する手段で、目的ではない。仕事の為に病気になったり、命を縮めたり不愉快になったりでは、目的と手段を取り違えた、本末転倒だ」

 だから私は、危険を冒す仕事や、心身を削る職務は躊躇なく断る。其れは目的と手段を取り違える憂いが有るからだ。

 この話をすると周囲は嘲笑の目に変わる。次いで、そんな生き方では、生きて行けないよ! と、半ば諭す言葉が口を突いて出る。

 親譲りの金持ちで、働く必要がないのだろう!と、半ば僻みっぽく云われると、私は心の内で、親から財物は貰わなかったが、報徳仕法の智惠は貰ったと…。

 もう一点、自分で学んだ智惠がある。人の働きには、頭脳を使う働きと、筋骨を使う働きの二つがある。

 殆どの人は、どちらか片方だけしか使わないが、私は意識して頭を六割、躰を六割使う事にしていた。誰だって六割の仕事なら、それ程頑張らなくとも出来る。

 併せて十二割の仕事が出来る勘定で、其れを組み合せれば、更に数倍は稼げる。

 程々な仕事している様に見えても、ちゃんとノルマは消化していたので、稼ぎが途絶える事はなかった。

 ただ小雨は嫌だ! 

 若い頃から、この生き方を心得ていた訳ではなく、暑い日も寒い日も大雨の日も、銭を得るために働いた。

 三十余歳の頃、小雨の時に仕事をして、筋肉リウマチを発症した。リウマチは物凄く辛かった。幸い治癒はしたが、若い頃を思い出すので、今でも小雨は嫌いだ。

 でもリウマチの、あの痛さのお陰で、その後の気楽な生き方を習得したのだから、罹病は却って塞翁失馬だ。

 晴耕雨読も度が過ぎると、屁理屈が多くなり、却って嫌われる。かと云って遊んでばかり居ると馬鹿になる。

 

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